『雨露が奏でる小夜曲』

 出窓に上体を乗り出して、何ともなしに外を見遣る時、人は何を考えているだろうか。
 それは焦がれる恋心で為された所業であるかも知れないし、あるいは昼間に食べたカップラーメンが、値段の割に大して美味くなかった事の、ささやかな気分転換かも知れない。
 他には例えばどんな理由があるだろうか。そう、一番多いのは、もっと単純なことだろう。天気が気になる時、人は空を見上げるものである。特にこれが、楽しみにしていた祭りを前にした、梅雨の一節であるならなおさらだ。
 国分晴治が外を見ていたのも、そんな理由からである。溜息を吐いた所で何が変わる訳でもないが、そうして胸中の苛立ちを吐き出さなければ、やっていられないとばかりに。
 だから、目の前の大樹の枝に少女が腰掛けているのを見て、あまつさえその少女が自分に話しかけて来た時の晴治の顔は、自分でも如何なものかと思うほどには、間が抜けていた。
「雨は、嫌い?」
 瞬間、脳裏を様々な返答が駆け巡る。曰く「好きかと聞かれたら、否と答えざるを得ないな」と、持って回った台詞。曰く「人に物を尋ねる時は、まずそれなりの見返りを用意しろよ」と、がめつい正論。曰く「悪いけど、うちは仏教なんで」と、ピントを外した返答で会話を打ち切る拒絶。等々。
「あー……まあ」
 結局の所、晴治が返せたのはこの一言だけだった。規格外の事態に遭遇した時、人は総じて脆いものである。だから、彼がそんな返答しか出来なかった事も、そう責められる事ではなかろう。
「そっか、残念。私は雨って好きなんだけどな。しとしとだったりピチャピチャだったり、ざあざあだったりする時もあって、色んな音楽がそこに有るでしょう。自分を雨に晒しながら、身体全体でその音楽を聴くの。楽しくない?」
 晴治の戸惑いなど意にも介さず、少女は調子良く捲し立てる。そこからさらに数十秒、馬耳東風もさながらに、少女の演説を耳にしていた晴治が、ようやく我に返った。
「だからこうして雨が降っている時は……」
「なあ」
 自分の話をまるで気にも留めず、唐突に話しかけてきた晴治に、少女は嫌な顔一つせず、むしろ笑顔を返す。
「なぁに?」
 屈託の無い笑顔で、少女。晴治は半ば放心したままで、口を開いた。
「そこ、濡れないか?」
 考えてみれば、問うまでもない自明の理である。少女が腰掛けている枝の上には、やはり大きな枝が張り出していて、傘のようにはなっているのだが、もちろん完全に雨が防げる訳も無い。時には雨垂れが滴り落ちてくる事も有るし、そもそもそんな枝に腰掛けていれば、もう下着までびしょ濡れになっていてもおかしくはないだろう。
「濡れるよ。でも、私はこれで良いの」
 無理をしているようには全く見えない少女の言葉。しかし晴治は、目の前でずぶ濡れになっている少女を見て、それでも平然と放って置ける程、酷薄な人間ではなかった。「ちょっと待ってろ」と言い残して、駆け足に下の部屋へと降りて行く。程無くして戻って来た時、その手には大振りなバスタオルが握られていた。それを、窓の外の少女に放ってやる。
「気休めだけどさ、使いなよ」
 ぶっきら棒に言い放つ晴治に、少女は驚いたような、喜んでいるような、そして少しばかり困っているような表情を見せ、「ありがとう」とはにかんで言って、躊躇いながら身体を拭き始めた。
「もっと強く拭かないと、意味無いぞ」
「水気が無くなったら、私ここからいなくなっちゃうから」
 何でもない事のように言い返してきた少女に、晴治はまともに呆けた顔を向けた。
「……何言ってるんだ、お前?」
 晴治が呆れ返った様相で尋ねると、少女はよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに、胸を張って答えた。
「私はね、雨女なの」
「…………って言うと、その人と一緒に旅行に行ったりすると、必ず雨が降るって言う」
「それは人間の話でしょう」
 苦笑して、少女。さらに、話について行けてない晴治を完全に置いてきぼりにして、少女は宣言した。
「私は、妖怪『雨女』のコズエ。よろしくね、人間さん」
「…………」
 国分晴治は、基本的に真っ当な学生である。憂鬱なマラソンの授業を、仮病を使って見学したことくらいは有るが、学校をサボったり、授業をボイコットしたり等と言うことは無い。成績は中の上、容姿人並みで、人気者でもないが、嫌われ者でもない。生徒会の副会長をしているため、学校中に名前と顔くらいは知れ渡っているが、まあその程度の話だ。追記、彼女はいない。
 そんな彼だから、思想は極々一般的。クラスメイトの中でよく話題に上がる漫画くらいは読んでいるが、特筆するほど好きだと言う訳でもなく、空想と現実を錯誤させたりもしない。当然、『妖怪だ』などと自己紹介されても、信じられる道理も無く、一笑に伏そうとした。が、
「信じるわけ無いか。人間って、こんな時不便だよね。自分の枠組みの中でしか物を考えられないって言うかさ。だからさ、ちょっと証拠見せちゃうね。えーと……あ、あの水溜りを見てて」
「水溜り?」
 晴治が、訝しがりながらもその水溜りの方を見ると、コズエは両手を組んで目を閉じた。
 ――唐突に、空気が変わる。雨の日は、いつも静謐な空気が浸透しているものだが、それをさらに極めたような、神々しさすらが漂い始める。その空気は、言うまでもなくコズエから溢れ出ているようだった。瞬きすら幾度と出来ない、ただの一瞬で、晴治はコズエに魅入られていた。枝の暗がりで静かに目を閉じ、宮司のように瞑想するコズエは、言いようも無く美しかったのである。
「――ほら、見て」
「え?」
 コズエの言葉に、ふと我に返り水溜りを顧みると、晴治は息を呑んだ。
「雨が……止んでる」
 先程までは、確かに雨垂れが水面を叩き、いくつもの波紋を生み出していた。だが今はどうだ。どれだけ見つめていても水溜りは波一つ立たない。それは、雨が止んでいると言う事を、何よりも雄弁に語っていたのだった。
 晴治は狐につままれたような眼で、呆とコズエを見つめる。目の前で、実際に雨を止まされたのでは、仕方がないと言うものだが、それ以上に晴治の心を掴んだのは、コズエの存在そのものだった。なるほど、妖怪と言うのも頷ける。これほどまでに自分の心を掴んで放さない存在が、ただの人間であるものか――
 コズエが目を開けると、再び辺りに雨音が響き始める。
「どう、信じてもらえた?」
 コズエの言葉に、我に返った晴治はふっと微笑んで答える。
「目の前でこんな事見せられて、真っ向からそれを否定できるほど、俺は身の程知らずじゃないよ。……それで、その雨女のコズエが、どうしてそんな所にいるんだ?」
「うーん……別に何か用事が有った訳でもないんだけど……。人間に興味が有ったから、とかじゃ駄目?」
 悪戯っぽく言ってのけるコズエ。その表情がまた魅力的で、晴治はコズエと話していられる事が、段々嬉しくなってきた。だから晴治は、笑って切り返すのだ。
「なら俺は、コズエの研究対象第一弾って所か。被験者として、何か報酬は出るのか?」
「そうねえ、私の笑顔なんてどうかしら」
「それは願っても無い。いくらでも力を貸してあげよう」
「あはは! あなたって面白い人ね。えーと……」
「――晴治だ。国分晴治」
「晴治ね、よろしく!」
 二人は笑い合い、しばらくの間取り止めの無い会話を続けていた。
 ――普段はどこにいるんだ木陰だったり川の中だったりよあなたの名前は晴れって書くんだ君は雨女だから俺は天敵なのかなあははそんな事はないわよ――
 やがて、楽しく話していたコズエの表情が、ふっと素に戻った。
「どうかした?」
「雨が……上がる。もう、帰らなきゃ」
 言われて空を仰ぎ見ると、なるほど確かに雲間から光が差し込み始めている。
「それじゃあ……私は行くね」
「あ、うん」
 唐突に訪れた別れの時に、晴治は面食らったような様相だったが、はっと気付いて声を上げる。
「コズエ、また会えるか?」
 その言葉にコズエはきょとんとした顔を見せ、それからふわりと微笑んだ。
「そうね……雨が降れば、かな」
 晴治もまた笑い返して、
「なら、そのバスタオルは貸しておくよ。使う事なんて無いだろうけど。次に会う時に、返してくれよ」
「――うん。じゃあ……またね」
 それだけを言い残して、コズエの身体は虚空に消えて行った。晴治はしばらく、コズエが残した余韻に浸っていたが、やがて踵を返すと勉強机に向かい、先程まで気が乗らなかった宿題に取り掛かり始めるのだった。

  ◇  ◇  ◇

 晴治にとって、最近の学校は少なくとも学び舎ではなく、会議場だった。一ヶ月先に学園祭を控えた生徒会役員であれば、さもありなんと言ったところか。
 生徒会の役員と言うと、持ち前の責任感と意欲に駆られて立候補した者と、周りからの投げ遣りな推薦に耳を引っ張られた者とで分かれるが、晴治の場合は前者だった。そして、この生徒会本部には、幸運にも前者のような者が多く、高校の生徒会組織としては、中々に積極的な活動をしていると評判であった。
 そんな彼らの最近の議題は、先に挙げた学園祭の施行場所の検討である。と言うのも、晴治の通う舞阪高校は、珍しい事にも学園祭を高校で行わないのだ。なんでも、初代の校長の意向で、『学園祭を開くのに足りる、有効な敷地を手配し、そこで出来るだけのものを作り上げる事は、社会に出る上で非常に良い勉強になる』と言う事だった。
 まあそんな訳で、『学園祭』と言う表現が果して正しいのかどうかは、彼ら自身悩む所ではあったが、他の生徒達に急かされながらも議論してきた甲斐有って、ようやくここに来て、議論の一致を見せていた。
「……では、皆さんこれで良いかしら?」
 議題を纏めて生徒会長が締めくくると、その場の全員があるいは頷き、あるいは声に出して賛成の意を示した。どの役員の表情も、安堵と達成感に緩んでいる。晴治の心情も同じようなもので、ホワイトボードに書かれた事の要点をノートに纏めつつ、安堵の息を吐く。
 今回の会議は、それほどまでに難航を極めていた。何しろ、例年当たっていた施設等が、示し合わせたかのように悉く塞がっていたのだ。そのため晴治らには、別の案を何とかして捻り出すしか、道は残されていなかったのである。

 ……公園? 
 いやいや、学園祭が出来るほどの公園を借り切るには、日程が余りにも迫り過ぎている。
 ……市民会館なら? 
 演劇や歌しか出来ないだろ、それじゃ。
 ……いっその事、一般商社のビルを、一日だけ貸してもうってのは?
 無茶を言うな、無茶を!
 ……ええい、もう駅前でぱーっと、
 真面目に考えなさい!

 そんな紆余曲折を経て辿り着いた答えは、存分に煮詰まった感が大きな案だった。ホワイトボードにはこう書かれている。
『施行場所、裏山の麓の裾野』
 一般の学校の生徒であれば、まずこの生徒会の正気を疑う事だろう。しかし、彼らからすれば大真面目な結論だった。
 裏山を使うに当たっての利点は次のようなものだ。
 一つ、裏山の管理者が、たまたまこの高校の卒業生なので、借りるのがたやすい。
 一つ、申し出されている企画の殆どが、野外でも充分に可能なものであり、後は何とか特設ステージの様なものをでっち上げれば、どうとでもなる。
 一つ、ロハ。
「……多分、みんなからは反対も多数出るでしょうけど、もうこれで押し切るわよ。今年のこの状態で、他に手が有るもんですか」
 普段は温厚で通っている生徒会長だが、目の下の隈と眠気による半眼で、何者も寄せ付けぬ迫力を醸し出していた。もっとも、この一堂に会する誰しもが、ほぼ同じ様な状態なので、この時点で反対意見など出ようはずもなかったが。
「大丈夫ですよ、会長。ウチの学校の連中は、逞しいやつらばっかですから。最初は渋るかもしれないけれど、最終的には与えられた状態でどうにかしてくれますって」
 途中から筆記に逃げて、脳みそのインターバルを図っていた晴治が、比較的冷静な思考でそう判断を下すと、そこかしこから同意の旨が上がる。会長も頷き、自分の周りの書類を片付け始めながら言った。
「それじゃあ皆さん、この数日間本当にご苦労様でした。この後もまだ、大変な日は続くと思うけど、ここからは生徒会としてではなく、クラスや実行委員会の一員として、それぞれ頑張って下さい。
 で、生徒会室に常駐するのは、私と持ち回りで一人ずつ……」
 ようやく難題から解放された反動で、俄かに騒がしくなるが、捕捉説明しながらも会長はそれを咎めない。すでにプリントで配布してある連絡事項をなぞっているだけなので、会長自身もそんなに重く考えていないのだ。
「……あ、雨」
 誰かがポツリと言うと、全員の視線が自然と外に流れる。言葉の通り、梅雨時期特有の、止みそうな気配のない雨が降り始めていた。
 げー、傘持って来てねえよ。馬鹿ね、天気予報で降るって言ってたじゃない。わざわざ朝の貴重な時間に、天気予報なんて見るかよ。たかだか四、五分早く起きれば良いだけじゃない。このたわけ、朝の四、五分の惰眠を貪るのが、どれだけの至福なのかもわからんのか。たわけとはなによたわけとは。
 辺りを包む、喧騒と言うほどには騒がしくない声を聞き流しながら、晴治は雨に思いを馳せる。雨にと言うよりは、それを住処とする妖怪の女の子に。しとしと、しとしと、窓の上縁を滑り落ちる雫が、雨のリズムに合いの手を入れる。そんな他愛無い情景の中に、晴治はコズエの笑顔を思い浮かべ――

 がたんっ!

 思わず椅子を蹴倒しながら、目を丸くして立ち上がった晴治に、何事かと周囲の視線が突き刺さる。程無くして皆、晴治の視線を追って見るが、
「……何を見てんだ、国分?」
 隣の席の友人の声に、晴治はハッと気がつき、頭を目まぐるしく回転させる。今の言葉から分かる事は一つ。こいつには、窓の外でこちらに向かって呑気に手を振っている、コズエの姿は見えていないと言う事だ。他の皆も似たような視線を向けていると言う事は、同じ状況だと考えていいだろう。なら、
「……だから僕は、カレーにはチーズよりも納豆の方が乙だと言っているんです!」
『……は?』
 唐突な晴治の宣言に、一同は一様に間の抜けた声を洩らし、一斉に笑い出した。
「あ、あれ? 俺、今何言いました?」
 慌てたように晴治が言うと、よじれる腹を抱えながら、対面の女生徒が、今しがたのショッキングな出来事を説明する。曖昧な表情で笑いながら、頭を掻いて照れ笑いしつつ、晴治は目線で、コズエに対して合図を送った。しばらくキョトンと見ていたコズエだったが、やがて合点がいった風に頷き、一跳びでベランダの柵を跳び越して、地面へと飛び降りる。一瞬肝を冷やした晴治だったが、すぐにコズエが妖怪である事に思い至って、無理矢理自分を安心させる。これ以上生徒会に伝説を残す気は無かった。
「国分君は、良く頑張ってくれたものね。あなたのクラスは今日は何かやっているの? 何も無いのなら、ここはもう良いから、早く帰って寝たら良いわ。さ、皆ももう、帰りましょう。私も今は、一杯の紅茶とベッドの枕が恋しいわ」
 会長の言葉に、皆から笑いがこぼれ、それをきっかけにして、三々五々帰り始める。晴治も散らしていた書類を纏め、鞄に詰め込んで席を立った。
「それじゃ、お疲れ様です。お先です」
 声を掛けると、まだ居残っていた連中から返事が届く。それを耳にしながら、晴治は早足で、昇降口へと向かった。もどかしさを抑えながら、靴を取り出し上履きをしまう。傘立てに刺さっていた、愛用の置き傘を手にして外に出ると、雨の中で嬉しそうに佇む、一人の少女の姿が有った。
「こんにちわ、晴治」
 あっけらかんとしたコズエの言葉に、晴治は苦笑を浮かべながらも、まず挨拶を返した。
「こんにちわ、コズエ。けど、お前なんだって、あんな所に居たんだよ。危うくアブナい奴になっちまう所だったぞ、俺は」
 きょとんとして、コズエは晴治に問いかける。
「でも、あそこって別に、人が立ってても不思議じゃない所でしょ?」
「ああ、そりゃ確かにその通りだよ。でもな、あそこは本当は、中からじゃないと行けない造りになってるの。ったく、どうやってあんな所に行ったんだよ」
「雨さえ届けば、どんな所にも現れる。それが私、雨女でございます」
 大仰に芝居がかったコズエの言葉に、晴治は噴出し、コズエもまた噴出して、二人で大笑いした。それから、二人は並んで歩き出す。
「そう言えば、さっきコズエの姿、俺にしか見えてなかったみたいだけど、そう言うもんなのかい?」
 首を傾げて晴治が言うと、コズエは頷いて説明する。
「私達とあなた達は、もともと存在する世界が違うから。もっとも、違うって言っても薄皮一枚で隔てられた程度だけどね。こうして、強く相手の事を考えなければ、私達は話すことも、見詰め合うことも出来ないのよ」
「ほー、なるほど。って事は、コズエは俺の事を強く考えていたと。惚れたな?」
「あはは、違う違う」
 軽いジャブのつもりが、思いの外綺麗にカウンターを合わされた感じで、晴治は大いに凹んだ。案外、コズエの表情は、悪戯小僧のそれで、先程の言葉も本心とは分からないものだが。
「それにしても、学校って面白い所ね。あんなに沢山の人間が、同じ服着て同じ事やって。どうして?」
 コズエの素朴な疑問に、晴治は首を捻るが、中々気の利いた答えは浮かんでこない。
「まぁ……それが義務だから、って言ったらそれまでなんだろうけど……。そうだな、違う服着て、違う事するために、学校に行くんじゃないのかな、なんて」
 晴治の答えは要領を得なかったが、コズエには興味深かったようで、しきりに頷いて何事か反復している。
「コズエはどうなんだ? 雨女の友達とか、そういうのもいるんだろ」
 何気ない晴治の問いに、コズエは曖昧な笑みを浮かべる。
「あのね、雨女は一人しかいないの。いつか時が流れて、私がこの世界から姿を消した時、新しい雨女が生まれるんだ。私達って、そういうものなのよ」
 笑顔ではあるが、どこか寂しげなコズエの言葉に、晴治は少々ばつが悪い思いになる。
「あ、でもね、ひとりぼっちじゃないのよ。雨が友達、木々が友達。草花が、木陰で雨宿りする動物達が、そのみんなが友達なんだから。植物と話してるなんて、人間には想像がつかないだろうけれど、彼らは私達には、雄弁にものを語ってくれるわ。だから、ね」
「――そっか。なら、そうなんだろうな。それに今は、こうして雄弁な植物よりもうるさい奴もいるし、ってか?」
「あはは、そうそう」
 コズエが話したことの全てを信じたわけではないが、本人がそう言っているのに、わざわざこちらから覆すこともないと、晴治はおどけて振る舞う。コズエもはしゃいで、また二人の間に会話が弾んだ。
「……そう言えば、さっきはあんなに大勢で、何を話していたの?」
 ふと思いついたように、コズエ。
「ああ、学園祭についての事だよ。……って言っても、学園祭じゃ分からないか」
「ううん、あなた達くらいの人達が、あの学校って所でやる大きなお祭りのことでしょう。なんだか賑やかで、私もふらっと顔を出してみたことが有るから、ちゃんと知ってるよ」
 えっへんと胸を張るコズエに。それなら話が早いと、晴治は続ける。
「うちの学校は変わっててさ、あのでっかい建物ではやらないんだよ。特に今年は、いつも使わせてもらってる所が軒並み駄目でさ、最近はもう、連日あーでもないこーでもないの小田原評定さ。それが今日、ようやく決まったってわけ」
「小田原評定って?」
「ああ、いつまで経っても決まらない、グダグダな会議って事だよ」
「ふーん……ね、どこに決まったの? 雨だったら、私も行ってみたいな」
「ああ、裏山の麓の広場さ。変な所だろ。でも、これが中々の穴場でさ、うちの先輩の顔が利くから、場代とかも無しなんだわ。それであの広さだから、思いついた時は感動ものだったぜ。……コズエ?」
 話の途中で、晴治はコズエの表情が少しずつ難しいものになっていた事に気づく。
「……晴治、裏山って、あの学校の裏の……?」
 どこか深刻な、コズエの問い掛けに、訝しみながらも頷く。それを見て、コズエの表情はさらに険しくなる。
「どうかした?」
「――一応聞いておきたいんだけど、場所を変える事って、出来ないよね?」
 コズエの言葉に、晴治は苦笑して首を横に振る。
「そりゃ無理だ。今からまた新しい所を探すなんて言ったら、今度こそ死人が出るよ。今だってみんな、ギリギリの精神状態なんだからさ。……あ、ひょっとして、雨女にとって大切な場所とかだったりするのか?」
「ううん、そういう訳じゃないんだけれど……」
 どうも要領を得ない気色で、コズエは言葉を濁した。不思議に思いながらも、晴治はそれなら良いやと、しきりにコズエに誘いかける。
「当日雨が降るかどうかは分からないけどさ、……いや、人間としては、屋外でやる以上は雨が降らないで欲しいんだけど、もしその時は来てみろよ。うちのクラスは屋台紛いの事をやるからさ、フランクフルトくらいは奢ってやるぜ」
 そんな晴治に、楽しみ、と微笑んで、コズエは空を見上げた。その目線を追って、晴治も空を見上げ、その意味に気づく。
「雨……止まないって言ってたのにな」
 特に感慨深くでもなく、ふと突いて出たような晴治の言葉に、コズエは視線を逸らしたまま、ぼんやりと口を開く。
「止まない雨は無いよ。そして、降り始めない雨も、無い。――だから……またね、晴治」
 横を見遣れば、そこには早、コズエの姿は無い。自分からは、別れの言葉一つ掛けられなかったことを、どこか寂しく思いながら、晴治はふと気づく。
「あ……バスタオル」
 すぐに、まあ良いかと思い直す。あのバスタオルさえ有れば、また会う事が出来るのだし。
 ほのかな名残を胸にして、晴治は一人、帰路を辿るのだった。

  ◇  ◇  ◇

 晴治は走っていた。夕暮れ時も既に過ぎた、薄暗闇の林の中を。段々と自分から離れていく影に、息せき切らして必死に追い縋る。そんな自分を見つめながら、晴治は夢を自覚していた。
(懐かしいな……いつ頃だっけ、これ。確かまだ、十歳になってたかどうか、って所だよな)
 醒めてしまっているものはしょうがない――とばかりに、晴治はその夢に浸るでもなく、ただ純粋な感慨に耽っていた。
 まるで明晰夢のように、はっきりした情景。そして、殆ど目が覚めた後であるかのような、鮮明な意識。この微睡みを堪能する事が出来るのも、そう長くはないだろう。
 そこまで考えが至ってしまったから、晴治は今のこの、舞い込んできたアトラクションを楽しむことにする。
 そうして、意識を凝らしてみると、幼い晴治の声が聞こえてきた。もっとも、それは耳朶を打つ音ではなく、そう言っていると認識出来るだけの、一種の念話のようなものに過ぎなかったが。
『待って……待ってってば!』
 カラカラになった喉で、幼い晴治は悲痛な声を絞り出す。その声を聞いたであろう影は、止まるずに、むしろ歩を早めて晴治を振り切ろうとしているようだった。
『どうして……どうして行っちゃうんだよ! あんなに楽しかったのに、いつでも遊んでくれるって言ったのに!』
 さらに投げかけられた言葉に、ようやく影の歩みが遅くなる。それでも、幼い晴治の足では追いつくことは能わず、その差は一向に縮まる気配がない。
『×××、待ってよ! ねえ! ×××!』
 確かに、その影の名前を呼んだようだったが、晴治には何故か聞こえて来ない。それを晴治は、夢から覚める予兆だと理解した。果たして世界の輪郭がぼやけ始め、やがてその色を失ってゆく。
 その中で、初めて影の足が止まり、チラと肩越しに振り向く。薄れていく世界の中で、その様子は曖昧だったが、その様子からにじみ出るのは、ほのかな慕情と愛惜の念か。
『……またね』
 影から届いた唯一の言葉は、晴治の胸に沁み入って、完全に覚醒した晴治の内にも、名残となって存在していた。
 呆と目を開き、しばしの脱力感を味わいながらも、晴治は夢を反芻していた。
 瞬きを二回打ち、ようやく脳と身体がリンクした実感を覚えながら、大きく欠伸をして頭を掻く。
「……やっぱ、昔の事だよな、今の。……あれ、誰だっけ?」
 どれだけ意識が鮮明になろうとも、どうにも答えは出てきそうになかった。
 ベッドから降りて、カーテンを開けると、まだ早い時間にも関わらず、鋭い陽光が差し込んでくる。思わず目をすぼめ、手を翳した晴治は、ポツリと呟く。
「梅雨の晴れ間……か。今日はコズエは出てこないだろうな」
 そう言った晴治の表情は、天気と反比例しているかのように、晴れなかった。

  ◇  ◇  ◇

 夏を目前に控えた高い太陽が、晴治の身体をさんさんと照りつける。肩に提げたボロのタオルで、額から滴り落ちる雫をしきりに拭いながら、晴治は無言のまま、鋸を引き続けた。隣では、クラスメイトがやはり同じように、あるいは鋸を引き、あるいはトンカチを振るって釘を打ち付けていた。舞阪高校二年C組、ただ今屋台作りの追い込み真っ最中である。
 一心不乱に鋸を引き続ける晴治だったが、時折周りからチラチラと突き刺さる視線が、不愉快な程に居心地悪かった。もっとも、不愉快なのは、もっと根本的な理由が有るのだが。先ほどから、ずっと無言で作業に没頭していたのも、口を開けば不満が弾けそうなので、それを自粛するためなのである。だが、もう我慢の限界のようだった。
「……どうしてこのクラスは、もはや学園祭当日まで一週間を切っているってのに、肝心の屋台が出来てねーんだよ」
 思わず口を突いて出たぼやきに、周囲の連中から『ギクリ』という音がする。
「時間はいくらでも有ったろうが。一ヶ月以上も前から、準備時間は週に一、二時間貰えていたわけだし」
「あ……あのね、その時間はメニュー決めとか、担当決めに費やしていたから……」
 一人の女生徒が、おずおずと言い訳を始めるが、晴治は取り付く島もない。
「ほほう、つまりあれか。屋台メニューの三品目、フランクフルトと焼きそばとお好み焼きを決めるのに、五時間余り。そして、調理担当計五名と、呼び込み担当計十人を決めるのに、やはり五時間余りかかったわけだ。大した長考っぷりだな。俺がその場にいたら、間違いなく『ゴン太さん残り十秒』と呟いている所だ」
「あー……」
 徐々に立ち上り始める怒りのオーラに、大き目の地雷を踏んでしまったと悟った女生徒は、これ以上は無理とばかりにすごすごと退散して行く。もはや、晴治の怒りは止まる所を知らなかった。
「よし、俺も男だ。そこに費やした時間については寛容になろうじゃないか。考えてみれば、高校の屋台のメニューでサーロインステーキだの、フルーツ・パフェだのが決定していなかっただけでも、僥倖と言うものさ。担当だって、無茶苦茶なシフトを組まれてたりするよりは、なんぼかマシってもんだ。だがな!」
 そこで、くわっと晴治の目が開き、若干血走り気味の目に、そこにいた全員が総毛立つ。
「なんで! 生徒会で! 疲れてる! 俺が! 屋台! 作りの! 主任なんだ! よ! 泣くぞ終いには!?」
 鬼気迫る勢いを以て、考えられないほどのスピードで資材を切り捨てていく晴治を、他のクラスメイトは遠巻きに眺めるだけだった。
「……って、お前らも手ぇ動かせーーーっ!!」
『う……うぃっす!』
 晴治の絶叫に突き動かされるように、制作班が一丸となって、屋台作りにスパートをかけ始める。その様子を横目で見ながら、ようやく少しは胸のつかえが取れた晴治は、再び落ち着きを取り戻して、自身もまた、作業を続ける。しばらくはまた、ゴリゴリトントンと、大工仕事さながらの音が響き渡り、徐々に屋台が形になっていく。
 仕事が完遂の目処を見せ始めた事で、先程までの鬼気……と言うよりは殺気のノリだった気迫が、ようやく晴治から薄れ始めたのを見て取って、近づいて行ったのは、普段から晴治と仲の良い男子生徒だった。
「悪いな、晴治。みんなも悪気が有って、お前に仕事を回してるわけじゃないんだけどさ」
「なるほど。それならつまり、俺は今この場で、悪気無くお前をぶん殴って良いわけだ。拳とトンカチと好きな方を選べ」
 再び焦点を無くして、狂気を帯びかけた晴治の目を見て、男子生徒は慌てて平謝りになる。その行動を僅かでも逡巡していたら、男子生徒の身に不幸な出来事が起きていたかも知れないが、辛うじて大惨事を避けることは出来たようだ。
「けど……毎度の行事でお前が手を抜く事なんてないけどさ、今回はまた、えらい気合いが入ってるよな」
「あー……そうか?」
 気のない返事をしながらも、晴治自身、それは感じている事だった。つと視線を逸らして、言葉を濁した晴治に、男子生徒はニヤリと笑って詰め寄る。
「さては……女だな」
「なっ!?」
 男子生徒の口を突いて出た言葉に、晴治はまともに色めき立つ。男子生徒は、そんな晴治の様子を見て、我が意を得たりとばかりに捲し立て始める。
「やぁっぱりそうか、この色男め! 大体おかしいと思ったんだよ。いくらお前が、人が好くて頼まれると断れないタイプだからって、そんな状態でまさか、屋台作りを了承したりはしないだろうよ。あれだな、当日にコレが来るから張り切ってるとか、そんな所だろ?」
 小指を立てて、ウリウリと詰め寄ってくる男子生徒に、晴治は反論しようとして言葉が出ない。自分でも、コズエが『楽しみ』と言ってから、妙に気合いが入ってしまっていた事には気付いていたからだ。
 しかも、男子生徒に答えられず、まごついている間に、他のクラスメイト達も何事かと寄って来たのだからたまらない。
「なにっ!? 国分にオンナの匂いだとっ!」
「きゃー! なになに、相手はどこの子なのっ、可愛い!?」
「くぅぅっ! 成績だけじゃなく彼女までとは、横暴だぞ国分晴治!」
「いやーん、ショックゥ! あたし国分君の事狙ってたのにぃ!」
「あ、あたしもー!」
「俺もーっ!」
 やいのやいのやいのやいのやいのやいの。
 口々に晴治をおちょくっては、斉唱で爆笑しだしたクラスメイトに、沈静化を迎えていたはずの晴治の怒りは、再びレッドゾーンに突入して……。
「うるせーーーーっ!! もう勘弁ならん! てめぇら全員、この場で頭かち割ってくれる!!」
 結局、ほぼクラス全体で行われた壮絶な鬼ごっこは、屋台の完成を遅らせると言う結末だけを残したのだった。

  ◇  ◇  ◇

 学園祭を三日後に控えたこの日、晴治は生徒会の役員として、予定地の準備に当たっていた。切り立った崖を臨む、比較的広い平地にラインが引かれて、それが簡易的な場所割りの基本線となる。そこに各クラスから、既に完成した展示物やら屋台なりが運ばれてきて、晴治達は、それを当初の割り振り通り、なるべく均等なスペースになるように誘導していくのだ。
 学園祭を裏山のような、余りにもあんまりな場所で開催することに対しては、予想していた通り怒濤のブーイングが出た。しかし、それは全校生徒の前での、クールで通っていた生徒会長のマジ泣きと言う荒技で、辛くも沈静化を迎え、逆に生徒全体のやる気を鼓舞したのである。
「すいませーんっ! この機材を置いておく場所なんですけど、どこが良いですかね?」
 晴治に声を掛けてきたのは、軽音楽部の部員だった。当日の演奏に使う予定なのだろう、仰々しいアンプ等の機材を、荷車のような物を用いて運んできていた。
「えっと……今制作中のステージが完成し次第乗せますんで、取りあえずはそちらの辺りに置いておいて下さい。あ、防水対策は十分ですか? 当日までの間、全く雨が降らない保証なんて無いんで」
 晴治の言葉に、軽音楽部員は一緒に荷車に乗せていた、厚手のビニールシートの山を指差す。それを見て晴治が満足そうに頷くと、軽音楽部員は、指定された場所に機材を運び始めた。
 一つ息をついて周りを見渡すと、いつの間にか、かなりのクラスの搬入が終わっていた。何も無い原っぱのようだった場所が、若者達の熱意で活気づく。その様を見て、晴治は誇らしげに微笑んだ。
「嬉しそうね、国分君」
「あ、会長。お疲れ様です」
 いつの間にかそばに来ていた生徒会長は、晴治の挨拶に、同じく「お疲れ様」と返して、傍らに立った。晴治がつい今しがたそうしたように、徐々に完成されつつある学園祭スペースを臨んで、穏やかに微笑んだ。
「良かった……一時はどうなる事かと思ったけれど、これなら何とか、予定通りに開催できそうね」
 晴治はちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべて、からかうように口を開く。
「やっぱり、会長の大泣きが効いたんじゃないですか? みんな唖然食らってましたし、可愛かったですよ」
 瞬間芸で顔を真っ赤に染め上げ、会長はひたすら縮こまる。
「だからっ……もう、それは言わないでってば。私の高校生活、最大の失態だわ」
「でも、そのおかげで全校生徒の態度が一気に軟化したんじゃないですか。あれが無かったら、中々ここまで漕ぎ着けるのは骨だったと思いますよ。可愛かったし」
「……国分君は、そんなに私をいじめたいのね」
「ええ、可愛いですから」
 楽しそうに自分を追いつめてくる晴治に、小さくため息をつき、ふとその表情が変わる。晴治はその様子に敏感に気付いて、おちょくるのを止めた。
「ねえ、国分君。場所がどこも空いてなくて、結局こんな所でやる羽目になってしまったけれど、あなたはどう思う?」
 何気ない、問い掛け。しかし、その表情から何を読み取ったか、晴治はしばし、真剣に黙考する。
「……良かったと思いますよ、俺は。別に、どことかそんなのは、最終的に出来たって言えるんなら、どこだって良いと思うんすよ。今年は確かにツイてなかったですけど、そのお陰で俺ら、この二ヶ月充実してたじゃないですか。町中駆けずり回って、毎日タウンページなんかと睨めっこして……。それに、ここにいる奴ら、良い笑顔してるじゃないですか。なら、それが答えなんですよ」
 晴治のその言葉に、会長は相好を崩す。
「私も、そう思うわ。確かに大変だったけど、私達にとって最後の学園祭を、何とかして成功させたかったから。色々と有ったけれど、私は今、本当に清々しい気持ちだわ」
 そう言う会長の表情は本当に晴れやかで、晴治も心から、晴れやかになっていくようだった。
「どうせなら、晴れた方が良いっすね。基本屋外ですし」
 晴治は軽い気持ちで口にした台詞だったが、会長は意外そうな目で晴治の方を顧みる。
「……どうかしましたか?」
 きょとん、と晴治が尋ねると、会心の笑みを浮かべた会長が、さっきのお返しとばかりに口を開く。
「……あら、国分君にとっては、雨の方が良いんじゃないの?」
「へ?」
「雨なら、来られるんでしょう、彼女さん」
「〜〜〜〜〜〜っ!?」
 唐突な爆弾発言に、晴治は鳩が豆鉄砲をバルカン砲で撃ち込まれたような顔で飛び上がる。
「な、な、な、な、な!?」
「有名よ、あなたのクラスで有った珍事件。あの生徒会副会長に熱愛発覚って」
「うだぁあぁぁぁぁぁぁっ!!」
 今度は、攻守交替して晴治の方が悶える番のようだった。

  ◇  ◇  ◇

 梅雨の晴れ間は瞬く間に終わり、その日も昼過ぎから、雨足が途絶えなかった。学園祭の日までは、残す所早二日。やり残した事など殆ど無い事は分かっていたが、防水が行き届いているかの確認に、晴治、会長を初めとして何人かで、スペースを見に行く。
 チェックは滞りなく進み、いくつかの店舗で若干雨に降られた部分も有ったが、電子機器その他、浸水が致命傷になる物に関しては、問題は無かったようで、一同ほっと胸をなで下ろす。全ての確認を終えて、会長がチェック終了の号令を掛けると、皆思い思いに帰り始めたが、晴治はその場に残っていた。そんな晴治に、横合いから唐突に声が掛かる。
「何をしてるの?」
 急な問いかけにも、晴治は戸惑うことは無かった。きっとそろそろだろうと、予感していた事だから。
「ぼーっと、眺めてるのさ。俺達の成果をさ」
「ふぅん?」
 自分の方を見る事もなく、目前に広がる屋台街を眺めている晴治の傍らに立ち、コズエはしかし、屋台街ではなく、晴治を見つめていた。
「晴治、嬉しそう」
「ああ、嬉しいさ」
 ようやく、二人は視線を絡ませる。そして、どちらからともなく、ふっと笑った。
「いつだっけ、お祭り」
「明後日だよ。六月十八日の日曜日。どうだろう、雨は降るかな……?」
 晴治が尋ねると、コズエは意地悪く微笑む。
「雨だよ。だって、私が見に来たいんだもの。雨でなかったとしても、この辺り一帯だけ雨にしちゃうわ」
「残念。むしろ雨を止ませてもらおうと、頼もうと思ってたのに」
「あははは、だめー」
 もちろん本気ではない言葉遊び。ただ、二人ともが本当に楽しそうに、相手の言葉を受け取って、投げ返す。
「まあでも、良いのかな。俺としても、コズエに来てもらいたいし。そのためには、雨じゃないと駄目なんだろう?」
「うん、そうだね。でも、どうして雨が降ってまで、私に来て欲しいの?」
 声はあくまでも楽しげに、弾んだ調子で何気なくこぼす返事。
「ああ――どうも俺、コズエに惚れちゃったみたいだからさ」
「――――――――」
 絶句。
 ただその言葉で、コズエの顔は埋め尽くされていた。そのまま、呆然と口を開く。
「これまた……随分と、無茶な理由だね……」
「無茶かな、やっぱり」
「うん、無茶だよ」
「そっか、無茶か……。まあでも、関係無いさ。昔から良く言うんだぜ。『無理が通れば、道理が引っ込む』てさ」
 再び、沈黙。
 ただ、今度はコズエは、笑顔だった。
「私もね、晴治の事、好きだよ。面白いなーとか、一緒にいるとこう、和むなーとか」
「俺、焦らないからさ。雨の日はいつも、こうして出てきてくれよ。楽しみにしてるからさ。そしたら俺、多分世界で一番幸せな人間だよな。だって、いつだって、雨が降る事を心待ちにして暮らすんだぜ。毎日がクリスマス・イヴの子供みたいな気分になれるじゃん」
 心底嬉しそうに語る晴治の言葉から、コズエの胸に、何か温かいものが染み入って行く。
「私も知ってるよ、クリスマス。小さい子供達が、胸を弾ませながら、翌朝の小さな幸せを思い描いて眠りに就く夜。
 ああ――多分、私もそうだったんだ。初めて晴治に会ったあの日から、雨が上がる度に物寂しさを感じて、雨が近づく程に、胸が焦がれ始めるの。
 きっと、私は晴治の事が好きなんだね」
 夢心地で話すコズエの肩を抱き寄せ、晴治がまた口を開く。
「来てくれよな、学園祭」
「雨が降ったら――ね」
 そう言ったコズエの唇が、晴治の頬をかすめて過ぎる。
「晴治……学園祭、楽しみ?」
「ああ」
「――――そう」
 コズエはまた晴治から視線を外し、遠くを見遣る。晴治は若干訝しみながらも、今はただ、我が身の幸福感を堪能しているのであった。

 翌日、梅雨の晴れ間を通過したばかりの空は、気まぐれにも眩い日差しを降らしていた。

  ◇  ◇  ◇

『一目惚れって、あると思う。
 出会ったその日、目を見た瞬間、自分のつま先から脳天まで、突き抜ける何かを感じたりするもんな。
 その相手に対して、心底痺れてる! って思える程の衝撃。
 初めて俺の目の前にコズエが現れて、雨を止まして見せてくれた時のあの瞬間、俺はコズエに惚れ込んだんだと思う。
 いや、惚れ込んだんだ、間違いない。
 雨の日しか会えないのは寂しいけれど、かえってその方が良いのかも知れない。
 考えてもみろよ。
 コズエがいないとき、俺はずっと、コズエの事を考えていられるんだぜ。
 この晴天の中で、コズエはどこに『陽宿り』してるのかな、とか。
 次に会えたときには、何を話そうか、とか。
 晴れの日に力一杯遊びながら、その箸休めには、こんなにも幸せな物思いに耽ることが出来るんだ。
 俺って、なんて幸せな奴なんだろうな。

 コズエ、好きだよ』

 ――晴治の気まぐれな日記より。

  ◇  ◇  ◇

 どことも知れない大樹の陰で、コズエは静かに独白する。

「一目惚れって、あったんだね。
 もっとも、私の場合は一目惚れって言うのかは分からないけれど。
 晴治は、思い描いていた通りの人だったね。
 優しくて、器用なのに不器用で、温かい人。
 私の周りは雨だけど、私の中に太陽を掲げてくれる人。
 私、生まれて来て良かったな。
 だって、晴治に会って、晴治と話して、晴治のことをこんなに好きになれたんだもの。
 雨の日にしか会えないのは、寂しい。
 晴治は晴れの日に、私がどこにいるのかも分からない。
 それに私は、晴治以外の太陽に照らされるのは、いや。
 だから、雨の日に晴治と会ったときは、うんと甘えるんだ。
 晴治に色んな話を聞いて、晴治に色んな事を話して、時にはぞんざいに扱って、あの生真面目な表情をしおしおにしてあげるの。
 でもそれも、きっと明日で終わり。
 怖いけど、私、頑張るよ。
 晴治、短い間だったけど、ありがとう。
 大好きだよ、さよなら」

  ◇  ◇  ◇

 その日は、大方の人間にとっては『生憎の雨』と言えた。しかし、その中でただ二人だけにとっては、『恵みの雨』に違いなかっただろう。
 雨の場合を想定して、予め張られていたビニールシートの屋根の下、メガホン・スピーカーを手にした生徒会長が、祭りの始まりを告げる。それを聞きながら、晴治は横目を走らせた。その先にいるのは、もちろん彼が魅せられた雨女。朗らかに手を振るコズエを見て、晴治はコズエにしか分からないように、小さく微笑んだ。
 盛大な花火が上がるでもないが、雨を圧して足を運んでくれた来場者の到着を皮切りに、徐々に祭りの様相を呈し始めてくる。
 準備期間では割を食った晴治だったが、その見返りは粋な物だった。
「本当に良いのか?」
 むしろ申し訳なさそうに繰り返す晴治を、その場に居合わせたクラスメイトは、笑顔で送り出す。
「これまでずっと、お前に頼って来てたんだ。このくらいの恩返しはさせろって」
「それに、雨が降ったって事は、彼女さんここに来てるんでしょ?」
「行ってやれって、色男!」
 口々に告げられる謝辞や激励に、晴治は口元が綻んでゆくのを感じた。
「そっか、ならお言葉に甘えさせてもらうよ」
 晴治の言葉に、さらに場が盛り上がる。
「おおっ! 彼女ってフレーズを否定しませんよ!」
「くぅぅ、梅雨なのに春だねぇ!」
「わはは、悔しかったらお前らも彼女作りなさい」
 強気な台詞に湧く一同。一種異様な熱気巻き起こる二年C組に押し出された晴治は、自ら作った焼きそばとフランクフルトを持って、コズエの元へと走るのだった。

「お待たせ、コズエ」
 晴治が息を弾ませて言うと、コズエの笑顔が花開く。
「ううん、今来た所だよ。……えへへ、これ一度言ってみたかったんだ」
「それ、どっちかって言うと男の方の台詞だぞ」
「え、そうなの?」
 すっとんきょうな声を上げるコズエに、苦笑しながら晴治は手に有った焼きそばとフランクフルトを差し出す。コズエは、まずフランクフルトから受け取り、好奇心と期待に瞳を輝かせて、大きくそれにかぶりつく。満ち足りた表情で咀嚼して、一気に飲み下すと、その笑顔がさらに深まる。
「おいしーっ! 晴治ずるい。人間って、いつもこんな美味しい物食べてるんだ」
「焼いた本人としては、嬉しい言葉だねえ。ならコズエは、いつも何を食べてるんだ?」
「なんにも。物を食べるって、これが初めてだよ。だから、美味しいって感覚も初めて」
 あっけらかんと言い放ち、再びフランクフルトを堪能し、うっとりするコズエ。その言葉を聞いて、なんだか神聖なものを汚している錯覚に襲われた晴治だったが、まあ喜んでるからいいやと無理矢理納得する。
 瞬く間にフランクフルトを平らげたコズエは、すぐに焼きそばに手を伸ばして、箸と悪戦苦闘し始めた。ところが、何度挑戦しても巧くいかず、次第に涙目になってきたコズエを見かねて、晴治が助け船を出してやる。
「ほら、貸してみなよ。箸は慣れないと難しいだろうからさ」
 晴治は箸でで焼きそばを持ち上げると、コズエに口を開けるように促す。コズエは素直に口を開き、親鳥に餌をねだる雛鳥のように口を突きだして見せた。晴治の運ぶ焼きそばをほおばり、一気にすする。
「んー♪ これもまた美味しいよー」
 やはり幸せ満点な様子のコズエに、晴治も自身が作った料理に興味が湧く。
「どれどれ……お、確かに結構イケるじゃん」
 予想以上の出来映えに、自分でも満足する晴治。ふと、自分が使った箸が、さっきコズエも咥えた物だと言うことに気付いて狼狽する。もっとも、当のコズエは、そんな事はまるで関係無しに、焼きそばを待ち焦がれて口を突きだしていたりした。苦笑して、再び焼きそばを取ってやると、また嬉しそうにほおばる。持ってきた二品があっさりと無くなり、一心地着いた所で晴治は肘を差し出す。心得てコズエはその肘を取り、自然に視線を絡ませて笑い合った。
「行こうか」
「うん!」
 傘を打つ雨だれの音を掻き分けて、所かしこから賑やかな喧騒や軽音楽部のライブが響く中、二人は仲睦まじく屋台街を回っていく。さすがに高校の文化祭なので、本格的な射的だとかが有ったりはしないが、それでも輪投げであったり、ボール投げであったりの遊技場は点在し、時には足を止めて、挑戦してみたりもする。晴治がまず手本を見せてやり、それに続いてコズエも挑戦するのだが、どれも中々上手く行かない。しかし、それでもコズエには結構面白いらしく、的から外しては、頬を掻きながら笑っていた。
 行く先々で、二人は軽い注目を浴びた。これは一重に、生徒会長評するところの『二年C組の珍事件』が原因だろう。普段から生真面目で、浮いた話の少ない晴治だが、その責任感から人気は高い。それがここに来ての、彼女発覚である。皆が皆と言うわけではないが、ちょっとでも生徒会に関心があったり、個人的に晴治と面識が有ったりする者は、一目でも件の彼女を見てみようと、野次馬根性丸出しになるのである。
 最初こそ、そんな視線も心地良く感じていた晴治だったが、さすがにこう、ずっと注視されていると辟易してくるものである。十軒も廻った所で、コズエを促して人気の少ない場所へと移動した。
「はぁ……なんだってここまでマークされなきゃならんのだ」
 思わず漏れたぼやきに、コズエの表情が不安に曇った。
「晴治、楽しくないの?」
 その言葉に、晴治は自分の迂闊に気付いて、慌てて言葉を翻す。
「ああいや、そんな事は無いよ。むしろ本音を言えば、楽しくてしょうがないくらいさ。けど、こんな扱いを受けるのは初めてだから、どうにも勝手が掴めなくて、調子が狂ってさ。
 ……あれ、そう言えばコズエって、俺以外の人間には見えないんじゃなかったっけ?」
 晴治がそう尋ねると、コズエはせいばし首を傾げて、やおら納得したように頷いた。
「きっと、みんなが『晴治の隣にいる人』って意味で、私にも注目してるからだよ。それに、私も晴治と一緒に廻れるお祭りだから、興味津々だしね。ほら、お互いがお互いを感じ合ってるでしょう」
「へえ、そういうもんか」
「うん、そういうもんだ」
 おどけてコズエが頷いて、また一頻り笑い合う。
「コズエ、学園祭楽しいか?」
「うん、とっても! 前に見たときよりももっと。きっと晴治が傍にいるからだね」
 コズエの言葉は裏表が無く、心底今を楽しんでいるであろう事が、晴治の心にも伝わってくる。晴治もまた嬉しくなって、朗らかに笑った。
「俺も、昔からこういう行事は好きなんだけど、今日は特に楽しいよ。
 やっぱり…………コズエ?」
 ふと、晴治はコズエの視線が自分から離れた事に気付いた。それを追った先には、少々離れた所に見える切り立った崖。その眼はせつないほどに寂しげで、目にしてしまった晴治の胸中に、言いようのない不安をくすぶらせた。
 そして、視線を外したそのままで、ぽつりぽつりとコズエが零し始めた。
「晴治……あのね、私とっても幸せだよ。こんな雨女、絶対にいなかったもん。私達は、人間にその存在さえ知られてなくて、でもいつだって、人間達が楽しそうに遊んでいるのを寂しく見ていたの。木々や草花は話し相手にはなってくれるけれど、手を取り合って一緒に遊ぶ事は出来ない。だからさっき、ああして何気無く晴治が腕を差し出してくれただけで、天にも昇る気持ちになるほど嬉しかった。晴治の腕をとって、並んで歩ける……人間にとっては、大したことじゃないのかも知れないけれど、私にとっては、それだけで生まれて良かったと思えるほどの出来事。時間は短かったけれど、沢山くれたね、思い出」
 ガーンと、固くて重い物で頭を殴られたような錯覚。晴治は、震える唇を辛うじて動かして、言葉を紡ぐ。
「……はは、なんだよ。それじゃ、もうこれでお別れみたいな言い種じゃないか」
 晴治の瞳に現れるのは懇願。そうでない事を祈る、無形の欲求。しかし、コズエは寂しげに微笑み、静かに首を振った。
「みたい、じゃなくて……そうなの。これで、お別れ」
 今度こそ、本当に何かで殴打されたかのように、晴治の身体がよろめく。震えるのはもはや、唇だけではなかった。膝が笑い、立っている事すら億劫になる。それでも、へたり込みそうになるのをどうにか堪え、晴治は感情を溢れさせた。
「どうしてだよ! どうして離れていくんだよ! あんなに楽しかったのに……晴れの日は会えなくても、心はいつも一緒にいられると思ってたのに!」
 コズエをなじると言うよりは、晴治自身が嘆いているような、そんな叫びが人気の無い小径に響き、雨に融けて霧散する。ただそれだけを叫んだだけで、晴治の喉は灼けるようにひりつき、慟哭のような呻きを絞り出す。
「……俺のせいか? 俺、何かコズエの気に障る事したか?」
「ううん、そんなことないよ」
「……だったらっ……どうしてっ!?」
 迸る感情の猛りを抑えきれず、晴治は真っ直ぐにそれをぶつけた。コズエは、無言のまま視線を外す。だが、それは逃避ではなかった。崖を臨むその瞳は唇以上に雄弁に語り、晴治の心に僅かばかりの落ち着きを取り戻させる。たっぷり三呼吸分の時を経て、晴治はある事を思い出した。
「……もしかして、この前話してた事と関係が有るのか? この場所でやることを、何とかやめられないかとか」
 コズエは黙ったまま、小さく頷いた。
「ならどうして、そう言ってくれなかったんだ! 言ってくれれば……」
「晴治は何とか、ここでやる事を白紙に戻して、別の場所でやろうとしてくれるよね。でも、実際にはそんな事、無理でしょう。晴治や、他の人達が、いたずらに焦燥するだけ。そんなの、耐えられないよ」
 コズエの言葉に、晴治は口を噤むことしか出来ない。何とか反論してやりたいのは山々だが、コズエの言う通りにしかならないことは、当の晴治自身が一番良く分かっているのだから。
「……何が起こるんだ、この場所に」
 どうにか紡げたのは、そんな問答だけ。晴治は唇を噛みしめ、コズエの言葉を待つ。
「勘違いしないでね。これは、あなたたちがここでお祭りをしたからではないの。もうずっと前から、私達のような存在には分かっていた事。約束されていた、ただの災害なの」
「……災害?」

 ぱら……。

 始まりは、ただの小さな石だった。こんな話をしていなければ、歯牙にも掛けなかった、予兆と言うにはあまりにも小さ過ぎるきっかけ。だが、胸騒ぎを覚えた晴治が振り仰いだとき、もはやそれは、始まっていたのだった。
「なっ…………!?」
 晴治は目を疑う。切り立った崖の上にそびえていた、厳めしい巨木が、冗談のように倒れ伏していく姿を目の当たりにして。

 ……そして、崖が一気に崩れ始めた。


 時間にしてみれば、ほんの一瞬だったのだろうか。ショックのあまりに、晴治が気を失っていたのは。ぼんやりと目を開くと、晴治は自分がコズエを抱きしめていた事に気付いた。
「……気がついた?」
「…………ん」
 晴治の腕の中、コズエは先ほどにも増して満ち足りた微笑みを浮かべていた。晴治の腕の温もりに名残を感じつつ、ゆっくりと口を開く。
「ありがとう。私の事、守ろうとしてくれて。
 でもごめんね、放してもらっても良いかな」
「あ、悪い」
 まだ夢心地に間の抜けた声をもらして、晴治はコズエを解き放つ。
 そして、目の前に広がる光景に唖然とした。
「……な、な、な……」
 晴治が目にしたのは、大壁のように迫り来る、崩れ落ちた崖の奔流だった。
 しかし、その進みは、冗談のように遅い。立ったばかりの子供の方が、まだ早いとすら言えるだろう。もっとも、その存在感は変わらず、どう考えても逃げ切れるのは間違いない速度で迫って来ているのに、どうしようもない絶望感に囚われてしまう。
「ビックリしたでしょう。ここはね、私達が普段いる世界なの」
「……コズエ達が?」
 晴治の言葉に頷き、コズエは一歩一歩前に出ながら、説明を続ける。
「そう、時の流れが一定でなく、色んな事があやふやな世界。火は冷たいかも知れないし、水は空に昇っていくかも分からない。それを決めるのはその場で意志を持っている者だけで、曖昧な線引きで創られている世界。
 そんな所だから、私達のような、あなた達人間にとっては不可思議な存在が生まれるの。
 そして、あなた達の世界とは、表裏一体」
 コズエはそこで足を止め、迫り来る崖崩れを見据えた。
「だから、ここで止めた崖崩れは、あなた達の世界でも止まる」
 その言葉に、晴治ははっとする。どう考えても、学園祭の場にいた全員に、大惨事をもたらすはずだったあの崖崩れを、無かった事に出来るなんて。
「出来るのか! コズエ!?」
「もちろん。そのために、今ここにいるんだから」
 言いながら、コズエは目を閉じる。そのまま合掌すると、かつて晴治が魅せられた、静謐な空気がその場に満たされ始める。そんな中、迫り来る土砂を意にも介さず、ゆっくりとコズエは印を切り、言霊を紡ぐ。

――雨よ降れ 強く強く 私達の髪を叩け
  空を割り 風裂いて この大地に届け
  それは恵みか 悪戯か
  悪戯雲の きまぐれだ
  この身差し出し奉ろう
  きまぐれ雨の お恵みを――

 鞠をつきながら口ずさむ童歌のような、コズエの言葉に聞き惚れていた晴治だったが、終わりの方の一節に敏感に反応した。
「……この身差し出し? おい、コズエ! それ、どういう事だよ!?」
 取り乱し詰め寄る晴治だったが、コズエの周りには見えない膜が張られているかのように、一定以上の距離を近づく事が出来なくなっていた。それが晴治の考えた悪い予想を裏付けて、晴治の心を一層掻き乱す。晴治は半狂乱で叫び、コズエに手を差し伸べるのだが、コズエはそれに応える事無く、詠唱を続けた。
 やがて、晴治は気付いてしまった。コズエの身体が、徐々に透け始めていることに。
「コズエーーーーーーっ!!」
 一際大きなその言葉に、コズエはようやく晴治を流し見て微笑み、手を――かざした。

 サーーーーーーーーー…………。

 初めは一筋。それが幾筋も連なって、理の無い世界にあって、あたかも流星群のような雨を降らせる。豪雨と呼べるほどに激しく、しかし霧雨のように優しげな雨が、もたもたと侵攻する土砂に降り注ぐ。それは、少しずつ少しずつ浸透して、無くしかけていたつながりを蘇らせていった。
 小石と土の隙間を這い進み、木の根の周りを鉄棒のようにして一回り。土砂の中だけでなく、それは次第に本来の大地へと結びつく。雨がくれた助け船につかまって、土砂は大地に必死でしがみつき始めた。徐々に徐々に、土砂は収まりを着けて行くのだ。
 そうして幾ばくも経たない内に、土砂崩れは、『無くなって』いた。あとはただ、地形の変わった崖が、晴治とコズエを見下ろしているばかり。最初に滑り落ちてきた巨木は、いつの間にか晴治の隣に横たわっていた。それが辛うじて、土砂崩れが『有った』ことを、思い出させていた。
 そしてコズエは……。
 薄くなった身体で、満面の笑みを浮かべていた。
 その笑顔を見て、晴治は気付いてしまった。もう、コズエが長くないことに。
「……どうしてだよ…………」
 脱力しきった晴治の唇が、ようやく言葉を絞り出す。
「……どうして、そんな顔が出来るんだよ…………。
 コズエが、そんなになってまで、さっきの土砂を止める必要があったのは、俺達があそこで祭りなんかやったからだろ。
 あの規模の土砂崩れだったら、こんな所で祭りなんてやってる、脳天気な人間達さえいなければ、放っておいてもどうってことはなかったんだ。
 それを……それを…………」
「ちがうよ」
 晴治の瞳に涙が溢れてきて、そこで初めて、コズエが口を開いた。
「大好きな人間のために……ううん、大好きな晴治のために、こうして力を使い切る事が出来たから、笑えるんだよ」
 ついに、晴治は堪えられなくなって嗚咽した。その様子を見て、コズエの笑顔に一片の未練が浮かぶ。しかし、すぐに振り払って、コズエは消えかけた手で、晴治の両手を包み込んだ。
「……また、いつか次の雨女が生まれたら、きっとその子は、また晴治の元を訪れると思うから……だから、今度は忘れないで……」
 コズエの言葉への晴治の返事は、しかしコズエの予想とは異なるものだった。
「……コズエのことも、シズクのことも、忘れないよ、俺は」
「…………え?」
 コズエの目が驚きに見開き、晴治の瞳を覗き込む。晴治は涙を拭い、コズエの瞳を見返した。
「名前を思い出したのは、つい最近だけどな。何しろ、シズクに会ったのはまだガキの頃だったし。でも、コズエと話してるうちに、あの頃の思い出が段々と戻って来たんだ。
 あの時もそうさ。俺達は、コズエ達の優しさに守られてばっかで……なのに全く成長しなくて…………」
 再びこみ上げて来た熱いものを、無理矢理飲み込んで、晴治はきっと顔を上げる。
「――よく聞けよ! コズエ! コズエに繋がってきた代々の雨女!
 長い間……本当に、ありがとう!!」
 今度はコズエが、喉を詰まらせる番だった。
「……わ、私だって……晴治に会えて……良かったって…………。
 晴治……ありが…………」
 そこまでだった。
 コズエの姿は虚空に掻き消え、晴治は力無く、その場にくず折れる。そして、慟哭がこだました。


 コズエが消えてしまってから、晴治が再び動き出す力を得るまでは、そう長い時間は必要なかった。のろのろと起き出して、自分のクラスの元へと戻った晴治は、そうと気付かれない程の空元気を回して、大いに学園祭を盛り上げる。羞恥心など、どこかに捨ててきてしまったかのような強烈な呼び込みは、皮肉にも彼女との逢瀬でテンションが上がったためだろうと解釈された。
 晴治はただひたむきに、祭りを楽しむ。そして、祭りを楽しませる。その場にいる全ての人が、精一杯の幸福を味わえるように。
 一つ、誰かを笑わせる度に。
 一つ、誰かに笑われる度に。
 一つ、みんなで笑い合う度に。
 晴治は心の中で叫ぶ。

 ――これが、コズエの守った笑顔だぞ!

 崖崩れは、途中で『無かったこと』になったため、短い時間とは言え、自分達が命の危険にさらされていた事など、その場にいた他の人間には知る由もなかった。それで良い、とも晴治は思う。コズエはきっと、自分が祭り上げられるのを望みはしないから。けれどもどうしても、コズエがした事への感謝をしたかった。自分だけでなく、この場にいる全員で。

 ――いつしか、雨が上がった。
 周りに可燃性の木々が多いため、キャンプファイヤーは焚かなかったが、精一杯に飾り立てたステージを大量の照明で煌々と照らし、軽音楽部のみならず、雄志のバンドが手を組んで盛り上げる、怒濤の夜祭が始まった。
 集った人々は、生徒外来関係なく、肩を組んで遮二無二囃し立てる。
 今話題のアイドルが歌う最新の曲を、三年生の女性グループが数人がかりで歌い上げた。
 数十年来の名曲を、飛び入り参加してきた職員一同が、涙ながらに熱唱した。
 ステージが空いた一瞬を見計らって、飛び込んでいった応援団が、大音量で校歌を披露した。
 滴る雨垂れは、いつしか皆の汗と替わり、紫陽花のようなひたむきな笑顔が、眩いステージに花開いた。

 そして、祭りが、終わる。

「――こうして、最後の学園祭が出来て、本当に……本当に…………」
 生徒会長が、任期最後の仕事として、話をしようとするのだが、むせぶ涙で言葉にならない。見守る皆は、あるいは共に号泣し、あるいは大声で温かい言葉を贈る。一つになった皆の心に励まされ、生徒会長は何とか思いを告げきった。ステージを囲う全員から惜しみない拍手が打ち鳴らされ、万感の思いの中、生徒会長はステージを降りた。
 そして、祭りを締めくくるのは、副会長の晴治の仕事だった。晴治は、ステージ上に駆け上がる。普段は、どちらかと言うと冷静が売りである晴治のそんな行動に、度肝を抜かれたような視線が集中した。
 晴治は、すでに涙を流していた。これ以上ない笑顔で。大きく、深呼吸を一つ。そして――
「みんなっ! 今日は楽しかったよな!」
 壇上の晴治の言葉としては初めてのにタメ語に、その場の全員のテンションが最高潮に上がる。
「こんな夜に、お疲れ様だとか、さよならだとか、そんな言葉は似合わないから――最後は、感謝の言葉で締めようぜっ!!」
 響き渡る歓声。突き出された拳の数々が、皆の異議無しを物語る。
「まずはっ……これまでずっと頑張ってくれた会長、ありがとうっ!!」
 巻き起こる感謝の波に堤防を壊され、ようやっと落ち着き始めていた生徒会長の涙が、再び溢れ始める。
「それから、今はもう上がったけれど、この雨の中最後まではしゃぎ続けた、俺達自身の根性にありがとうっ!!」
 歓声と共に、笑い声が響き渡る。そして広がる、ありがとうの輪。
「最後にっ……この場を作り出すために必要だった、全ての事に、全ての存在に……どうもありがとうーーっ!!」
 他の誰もが、それは先生であったり、この場を提供してくれた卒業生であったりへの、謝辞だと思っていただろう。しかし、晴治の心の中にはもう一つ、大切な一人の女性の姿が有った。
 そのありがとうに、皆のありがとうが重なる。

 ――ありがとう、本当に……ありがとう!

 ――コズエ!!

  ◇  ◇  ◇

 出窓に上体を乗り出して、何ともなしに外を見遣る時、人は何を考えているだろうか。
 それは焦がれる恋心で為された所業であるかも知れない。国分晴治は今まさに、そんな気持ちで雨景色を眺めていた。
 これまでの人生で最高に楽しく、しかし最高に悲しかった学園祭の日から、早二ヶ月。夏の高い気温に、雨の日独特のじっとりとした蒸し暑さが加わり、かなりの不快指数を記録している。そんな中、晴治は備え付けてあるクーラーも回す事なく、ただぼうっと外を眺め、生い茂った緑なす若葉を滑り落ちる水玉を目で追っていた。
 こんな日は、どうしても思い出す。コズエの笑顔を、その透き通った白い肌を、そして唐突にかけられた、耳を撫でる鈴のような声を。
「雨は、嫌い?」
 そう、ちょうどこんな感じの――
「――――っ!?」
 幻聴かと疑う暇もなく、夢見心地だった晴治の意識が、一気に現実に引き戻される。
「嫌いじゃないの? ならどうして、そんな呆けた顔をしているのよ。雨と共に生きる立場のあたしとしては、結構そうされてると気に入らないんだけど」
 そこで、目の前の大樹の枝元に腰掛けた少女は、からかうような視線を晴治に投げかけた。
「特に、あなたにそうされるとね」
 あの時のように、様々な言葉が晴治の脳裏を駆け巡る。が、今度はさして時間もかけず、予定調和のように一つの言葉が浮かんできた。
「……そこ、濡れないか?」
「濡れるわよ。でも、もうあなたには、それでも大丈夫だって分かってるでしょう」
「それでも、俺が放っておけないって事も、分かってるんだろ?」
「まあね、でも、バスタオルは要らないわよ」
 お互いの言葉に、ふっと笑い合う。
 目の前にいるのは、コズエではなかった。その事に一抹の寂しさも感じた晴治だったが、それを圧し消して口を開く。
「名前は、何て言うんだ?」
「アマノよ。あなたは……晴治でいいのよね」
 首肯する晴治。
「ねえ晴治、あなたはコズエがいなくなってから、どう過ごしてた?」
 探るような、アマノの言葉。晴治は逡巡もせず、淀みなく答える。
「別に、それまでとほとんど変わりは無かったよ。学園祭からこっち、なんか妙に人気が出ちゃって、変なファンクラブみたいなのが出来ちゃったみたいだけどな」
 それから、少しだけアマノから視線を外して、
「後は……こんな雨の日には、物思いに耽る事が多くなったかな。やっぱ色々、思い出すからさ」
「――――そう」
 アマノもまた、少し視線を外して、若干の間を持ってから口を開いた。
「あたしがコズエじゃなくて、がっかりした?」
「いや全然」
「…………」
 予想に反して、全く間をおかずに返された言葉に、アマノの方が面食らった。
「決めてたから。きっとコズエの次の雨女も俺の所に来てくれるはずだから、その時は目一杯、そいつが望んでる事を叶えてやろうってさ。それが、俺がコズエにしてやれる最高の恩返しだろうから」
 呆気に取られたように、ポカンと晴治を見ているアマノに、しっかりと向き直って晴治は言う。
「俺は、コズエのことが今でも好きだ。きっとずっと、愛してる。だからせめて――な」
 呆けていたアマノは、唐突に大声で笑い出した。おかしくてたまらないと言うように、お腹を抱えて笑い続けるアマノに、晴治はさすがに戸惑った目を向ける。
「……はは、なるほどね。これは筋金入りだわ。そりゃあこんな、規格外な出来事だって起こしちゃうわけよね」
「え?」
 突然、アマノが怒ったような顔をつくる。
「国分晴治! あんたのせいでね、あたしは大迷惑よ!」
「え? あ? ……え?」
「あんたが、あんなにも滅茶苦茶に想いを高めちゃうから、こんな事になっちゃったじゃないの!」
 その言葉が終わるや否や、アマノが腰掛けていた枝の裏から、もう一人の少女が顔を出す。

 ガタンッ!!

 思わず、晴治は椅子を蹴倒し、その場に立ち上がっていた。たった二ヶ月見ていなかっただけで、途方もない懐かしさを覚えるその笑顔を見て。その身からにじみ出る神秘的な空気は、何一つ変わった所はなく、あの時のままで、晴治の前に姿を現したのである。
「…………嘘だろ」
「…………嘘じゃないよ」
 そこにいるのは、紛れもなくコズエだった。もう、怒ったような表情をやめていたアマノが、やれやれと言わんばかりに肩をすくめる。
「力の半分、持ってかれちゃったみたい。逆に言えば、コズエも本来の半分の力しか持ってないみたいだけどね。前代未聞よ、二人で一人前の雨女なんて。面倒くさいことしてくれたわ」
 そこまで言ってアマノは、二人がすでに自分の言葉など聞いていない事に気付き、苦笑する。
「私達は、人間の想いから生まれた存在だから……だから、晴治があんなに私の事を想ってくれて……その想いを皆に拡げてくれたから……」
「どうでも良いよ、そんなこと」
 自分の中にたゆたう想いを、何とか口にしようとしてままならないコズエを、晴治は涙を拭おうともせず優しく遮る。
「ただ俺の目の前にコズエが帰って来てくれた、それだけで良いんだ。理由なんて要らない」
 感極まって、コズエの表情が崩れ、瞬く間に涙が溢れる。そして無言のまま、晴治に飛びついていった。それを受け止めた晴治の足下に、コズエの懐から一枚の大きなバスタオルが舞い落ちる。それは紛れもなく、晴治がコズエに渡したバスタオルそのものだった。
「……どうやら、あたしはお邪魔みたいね。終わったら呼んでちょうだい、お二人さん」
 それだけ残して、アマノは身を翻した。
 後に残された二人は、お互いの温もりを感じ合っていたが、やがて少しだけ身を離す。
「コズエ……お帰り」
「――うん、ただいま!
 それと、あの時最後まで言えなかったから、続きを言うね」
 コズエは、涙に濡れた至高の笑顔を晴治に贈る。
「晴治、あなたに逢えて良かった。ありがとう、それと……これからもよろしくね」

 『雨女』と言う存在がいた。
 はるか昔から、人に知られる事なく、人と共に在り続けた者が。
 時にその身を糧にして人を守り、その見返りを、人自身は意識していない礼……祭りなどを楽しむ事で受けてきた者。
 彼女らはいつも、寂しかった。
 しかし……。
 悠久の時を越えて、今やっと――――

 ――――了。

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