【痕・短編SS 『夏の日和の子猫の寝顔』】


 チリーン……チリーン…………。

 涼やかな音が空に染み入る。
 風が軒下に垂れる絵札を揺らし、透き通ったガラスが心地よいリズムを奏でていた。
 柏木家の軒間を彩るその音楽に、時折別の音が混じる。

 チリーン……チリーン…………すぅ……。
 チリーン……すぅ……チリーン…………。

 いかにも日本庭園と言わんばかりの庭に臨んで大きく開かれた座敷の、最も風が当たる所に彼女は横たわっていた。
 年は二十歳前後だろうか。それにしては小柄に感じるが、大人びた雰囲気は体の小ささを補って余りある。
 女性にしては短く切りそろえられた髪は、乱れてなお日本人形のように美しい。
 少々きつい印象を受ける釣り目がちな眼は、しかし今は閉ざされて、彼女本来の優しさを象っていた。
 高くはないが整った小鼻がもらす控えめな寝息は、先ほどから風鈴に合の手を入れている張本人である。
 夏の昼下がり、うたた寝をするには若干暑すぎる気もするが、彼女は気にする風もなく、まどろみの中に身をゆだねていた。
 
 彼女――柏木楓が静かに眠るその部屋に、小さな来訪者が現われる。
 漸く立つ事が出来る様になったくらいか、古めかしい柱に手をついて、一生懸命に寸詰まりの体を支える幼女がそこにいた。
 おっかなびっくり手を放して、幼女は楓に近づいてゆく。
 楓の目の前にぺたんと腰を下ろし、幼女は見る者全てが幸せになるような笑みを浮かべた。
「あー」
「…………ん……」
「ねーちゃ、おねーちゃ」
「…………ぅん?」
 小さな手を健気に振って呼びかける幼女に、楓は深い慈愛の瞳をゆっくりと開いた。
「――――あかねちゃん?」
「だぅ!」
 楓が気づいてくれた事で、さらに気を良くした幼女――――あかねが、嬉しそうにもろ手を挙げる。
 楓を起こしてみたものの、さりとて何もせず、ただワクワクと自分を覗き込んでいるあかねに、
 楓は心得たと言うように微笑み、少しだけ体を起こして手招きした。
「――――おいで」
「きゃっほう♪」
 我が意を得たりとばかりに飛び込んでくるあかねを優しく抱きしめ、愛し気にその髪を撫でる。
 絹糸のような楓の指先に髪を漉かれる内に、あかねは天使のような笑顔のままで、次第にまどろんでいた。
 やがてコクリコクリと舟を漕ぎ始めたあかねは、たおやかな楓の腕に抱かれていよいよ眠りについた。
 安心しきったあかねに、かすかに口を開き白い歯を覗かせて、抱きしめた腕に愛情を込める。
 いつしか楓自身も再び夢を見始めた時、ふと縁側からの視線に気づき、また瞳を開く。
 そこには、小学校に入るか否かの幼い少年がいた。
 少年は物欲しそうな顔で、足を出したり引っ込めたりしている。
 その少年の微妙な葛藤に気付き、幼いながらに兄としてのメンツを天秤に掛けている少年が愛しく、
 楓はあかねにそうしたように、優しく手招きをした。
「え…………でも…………」
 なおも躊躇する少年に、楓は慈母のごとき瞳で微笑んだ。
 そして、その小振りな唇が少年の名を紡ぐ。
 創くん。
 それはいかな魔法だったか、魅せられたように創は楓に近づく。
 楓はあかねを起こさぬように気遣いながら体を起こし、座って器用に2人を膝に抱いた。
「あ…………」
 恥ずかしそうに身を捩る創に、楓はあかねにそうしたように髪を撫でる。
 そして、魔法を紡ぎだした唇が、またゆっくりと動き出した。


 ――――静かに訪れる 色なき世界
 すべての時を止め 眠りにつく

 悲しみ喜びを 集めて人は
 流れし時の中 安らぎ見る

 生まれ生き消えてゆく 人の運命の中
 誰もみな空の星に 微かな願い託す

 密かに輝ける 満天の星
 地平の彼方へと 流れ消える――


 楓が紡ぐ子守歌に包まれて、創もあかねも安らかな眠りにつく。
 それを見届けて、楓もまた、夢の世界を訪れていた。

「ただいま」
 透き通った声が、玄関から居間を通り抜けた。
 額に貼り付かせた、金髪と見紛わんばかりの美しく豊かな茶髪を、些か鬱陶しそうに弾きながら彼女は帰ってきた。
 楓よりもさらに幼い顔立ちは、あかねの笑顔をそのまま大人にしたようだった。
 柏木家の四女、柏木初音である。
 居間に来た彼女は姉に帰宅を告げようとして、思わず口をつぐんだ。
「おかえり、初音」
 台所から出てきた勝気でボーイッシュな雰囲気の女性が、初音に声を掛ける。
 初音は慌てて人差し指を立てて、静かにと言うジェスチャーをした。
 いぶかしむ女性――柏木家次女梓に指先で示して見せると、居間の様子を見て合点が入ったと言うように口を閉ざす。
 居間を包む優しい空気は、説明の必要すらなく見る者を癒した。
 しばし優しい笑顔で3人を見ていた梓だったが、不意に悪戯っぽい笑顔になると、また台所の方へと引っ込む。
 飽かずその光景を眺めていた初音の耳に、自動車のエンジン音が届く。
 聞き馴染んだその音に、初音は顔を綻ばせた。
 果たしてその想像通り玄関は開き、初音最愛の姉夫婦が帰ってくる。
 久し振りの休みを利用して買い物に行っていた2人は、初音に招かれて居間の3人を楽しそうに見る。
「あらあら、2人を楓にとられてしまったわね」
「かわいいもんだ、2人ともあんなに安心した顔で寝てる」
 我が子と妹の幸せな情景に、千鶴も耕一も表情を緩めた。
 そこに、悪戯っ子の顔をした梓が、ポラロイドカメラを持ってやって来た。
 しかし、カメラを構えていながらも一向に撮る気配の無い梓に、
「何をしてるんだ?」
 尋ねる耕一に、梓は手だけで「まあ見てなって」と合図する。
 そして、一同の見守る中、視線に気付いたか楓が僅かに身じろぎをする。
 いよいよかと構え直した梓のカメラのファインダーを通して、楓は大きく欠伸をした。

 カシャ!

 眩い光と小さな音に、少々慌てて楓が目を覚ます。
 起き抜けの微かに潤んだ瞳に、梓の意地悪いピースが飛び込んで来る。
 状況を理解して、楓は頬を赤らめた。
「楓はうたた寝から目を覚ます時、猫みたいに必ず大欠伸をするからね。
 ばっちり撮らせてもらったよ」
「もう、梓姉さん……!」
「可愛い寝顔だったよ、楓ちゃん」
「こ、耕一さん……」
「あら、なら私と楓とどっちが可愛いですか?」
「え、そ、それは」
 予想して然るべき千鶴の言葉に、耕一はしどろもどろになる。
 その様子を見て、楓も初音も楽しそうに笑った。
 と、出来上がった写真を見ていた梓が、何かに気付く。
 わくわくした表情で何かを書き込んで――――

「……ぅ……ぁはははははははははははははははは!!!!」

 大爆笑を始めた梓に、楓以外の面々は何事かと写真を除きこむ。
 ――――そして、
「うわはははははははははははははははははっ!」
「…………く……っ…………ふっ…………」
「くす……み、みんな……そんなに笑ったら……あはは……かわい、そうだよ……」
 三者三様に、やはり大爆笑する。
 楓は一体何を書かれたのかとオロオロするが、膝に2人の幼子がいるために立つこともままならない。
 が、そんな楓の心情が伝わったか、それともただ笑い声がうるさかっただけか、創が目を覚ます。
「……?」
 父母や叔母の笑いに誘われて、創も写真を覗き込み、思わず吹き出した。
「……楓おねえちゃん……これ…………」
 笑いを堪えながら差し出された写真を見て、楓は絶句し、顔を紅潮させた。

 写真の楓は、創とあかねの上で大きく口を開けていて――――
 その下にはこう書かれていた。


 『注文の多い料理店』


 で、ご丁寧にも楓の口からは「がおー」と言う吹き出しが描かれていたわけで。
「――――梓姉さんっ!」
 夏の日和の柏木家居間に、珍しい楓の怒鳴り声が響いた。


 その後、梓が泣いて謝るまで、食卓から梓のおかずが消え続けたのは、また別のお話。

 写真を見たあかねが、楓を怖がって暫く近づかなくなり、密かに楓がヘコんでいたのも、また別のお話。


 ――――了。

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