思わず隠れてしまった木陰から、盗み見るように送る視線の先、一対の男女が楽しげに談笑していた。どちらも良く知る者で、男の方に関しては、小さい頃からの縁が尽きない幼馴染み。人前では空々しく、『腐れ縁』だなどとも言ってみるが————

 ————好きだった。きっと、誰よりも。
 そう、まさに今、彼——グリフィス・ロウランの前で笑っている、彼女——ルキノ・リリエよりも。

 長く小指に繋がっていたはずの赤い糸は、綻び始めると解けないほどにもとぐり、いつしか擦り切れて落ちてしまっていた。『幼馴染み』と言う固い絆は、とかくそれ自体が枷となる事もままあり…………変化を恐れて足踏みをする内に、取り返しのつかない未来へと進んでしまうものだ。
 思い起こしてみれば、自分が今のルキノの位置に立っている可能性も有っただろうに…………詮無きことを考えるのは止め、一つ嘆息した所でふと顔を上げてみれば、視界の中でルキノの身体がグリフィスの腕の中に収まり————

 ————シャリオ・フィニーノが、二人の姿を観ていることが出来たのは、そこまでだった。

 久方ぶりの全力疾走がもたらしたものとは、少々異なる胸の鼓動を聞きながら、シャーリーは大きく息を吐く。膝に手を着いて、息を整え————ふとした拍子にフラッシュ・バックするのは、先程のグリフィスとルキノが抱き合う瞬間。大きく首を横に振ってみても、その光景が振り払われる事はなく…………
「…………なーにやってるんだろうな、わたし」
 自嘲気味に呟いて、たまたま近くに有ったベンチへと腰を下ろす。背もたれに身を預けて、うっすらと汗の滲んだ額を拭い、もう一つ溜息を吐く。
 素直になれなかったのは自分。現状に甘えていたのも自分。変化を恐れていたのも自分。
 ————全部、自分のせいだ。
 切り替えようとは思うが、中々上手くいかない。こんな調子で、残り半分ほども有る今日の仕事は大丈夫なのかと苦虫を噛み————

「————どうかしたんですか?」

 声を掛けてきたのは、六課最年少の二人組だった。


 【魔法少女リリカルなのはSS『不器用な二人に、不器用なわたしが————』】


 どうかしたのかと言えば、間違いなくどうにもしたのだが、さりとてまだまだ子供の域を出ない彼らに相談するようなものでもない。いきおい、シャーリーは曖昧に言葉を濁し、「ん、まあなんでもないよ」と淡く笑うだけに留めた。エリオとキャロは顔を見合わせ、不安げな表情をして見せたが、追求して欲しくなさそうなシャーリーの様子を感じ取ってか、敢えてそれ以上は聞こうとしなかった。そんな二人の心遣いに感謝しつつ、シャーリーは所在無さげな二人の助け船に、質問を返す。
「二人はどうしたの? この時間だったら、まだ教導の時間だと思うんだけど」
 思った通り、手軽な話題にこれ幸いと乗ってくる二人。
「スバルさんが、軽いものですが怪我しちゃいまして。その治療を兼ねて、フォワードはオフ・シフトに入らせて頂く事になったんです」
「いつも頑張り過ぎてるから、こんな時くらい休みなさい、って言われちゃいました」
 なるほど、道理で二人とも私服に着替えているわけだ、と納得するシャーリー。自身の精神状態を考えれば、本音を言えばオフ・シフトは羨ましい所なのだが、そんな事はおくびにも出さず、お姉さん然として微笑む。
「そっか、フォワードはいつも大変だからね。それじゃ今日は、二人でデートかな?」
 からかうように言われると、二人の反応はシャーリーの期待を遥かに上回るものだった。
「そそそそそんな、で、デートだなんて、別に一緒に出掛けて遊ぶだけですよっ!」
「そ、そうですよ! 気が早いと言いますか、まだ子供だしと言いますか…………」
 小動物のように、ぶんぶんと腕を振って狼狽する二人に、むしろシャーリーの方も少々困惑状態である。
「いや、そんなに過剰反応しなくても…………て言うか、二人で出掛けて遊ぶって、男女一人ずつならデートみたいなもんじゃ…………」
 そこまで言って、以前のオフ・シフトに二人の休暇プランを立てて上げたことを思い出す。あの時も、冗談半分でデート紛いの事をさせてしまおうと組んでみたものだが、ティアナ曰く、二人とも大真面目にそれらを『消化』しようとしていたそうな————
(…………おや?)
 と、そこまで考えていた時に、ふとキャロの表情が目に留まる。エリオと同じく真っ赤になって否定する中に、ほんの少しだけ顔を覗かせた落胆の色。それは本当に幽かなもので、恐らく自身でも、そんな表情をしていることに気がついていないだろう。
 なら、何故シャーリーが気づけたのか————それは、自分が昔していたものと、同じものだったからに他ならない。
「————ねえ、二人にとって、お互いはどんな人?」
 ふと気がつけば、口を突いて出た問い掛け。あまり直球に過ぎると内心苦笑しながらも、シャーリーは二人なら大丈夫だろうと気安く考える。思った通り、エリオもキャロも、唐突な質問を訝しむ事もせず、真っ直ぐな笑顔で即座に答えた。
「キャロは、なんだか護ってあげたい妹みたいな感じです。実戦だと、結構僕の方が護られている気もするんですが…………」
「エリオ君は、頼りになるお兄ちゃんみたいです。そんなこと無いよ、いつもとっても助けられてる」
 答えて、笑い合う二人。先程とは違い、キャロの表情に暗いものは差さない。内心、そんな様子に苦いものを覚えつつも、「そっか」と微笑み————
「それじゃあシャーリーさん、すみませんが、僕たちはこれで」
「ああ、うん。楽しんできてね二人とも」
「はい! ありがとうございます! では、行ってきますね」
 見送るシャーリーに、振り返って手を振る二人。その視界の中、エリオから一歩遅れた所を歩くキャロの手が、おずおずとエリオの方に伸ばされて行き————ふとキャロを見たエリオの視線に、何となくそのまま引っ込めてしまうキャロ。楽しそうに談笑を始める二人の間に陰など無いが…………
「…………あまり、良くないなー…………」
 二人の姿が見えなくなった所で、ぽつりと漏らした言葉は、誰の耳に入ることもなく、ただ風に溶けて行くのみだった。


 数日後、機動六課隊舎の食堂にて、フォワード陣がいつものように食事を取っていると————
「エリオー、ちょっとこっちに来てー」
 ふと届いた声に4人がそちらを見てみれば、少し離れたテーブルに着くシャーリーと、大きく盛りつけられた種々の料理。
「勢いで注文してみたんだけど、やっぱり一人じゃ食べ切れなさそう。良かったら手伝ってくれないかな? これ、エリオ好きだったよね?」
 言われて改め料理を見れば、そこに盛られているのは確かにエリオの好物ばかりだった。いつもは量を優先にするため、スバル達と共に通称『特盛りパスタの魔導士スペシャル』ばかり食べているエリオだったが、そこはやはり年頃の少年であり、ハンバーグやらエビフライ等を食べたくなる事も有るのである。
「良いんですか、シャーリーさん!?」
「お願いしてるくらいだから、気にしないで。ほら、少しパスタ取って、こっちにおいで」
「はい!」
 返事をするが早いか、エリオは3人に断って、大きな皿の上に相当量のパスタを盛りつけ、席を立ちシャーリーのテーブルへと向かう。
 残された3人は、唐突な展開にしばしぼうっとしていたが、すぐに我に還り食事を再開する。
「珍しーねー、シャーリーさんが注文の量間違うなんて。まあ、わたしとしてはいつもエリオに分けてる量が食べられるから、全然オッケーだけどねー。はぐ」
「…………あんた、いつもあれだけ食べてて不満だったの…………?」
 喜々としてパスタを頬張るスバルに、幾分げっそりとティアナが突っ込む。キャロは、変わらずパスタを食べ続けながら、時折ちらちらとエリオ達のテーブルを横目で見ていた。大好物にありつけたエリオの表情は、いつに増して喜色満面で、隣のシャーリーもまた、優しい表情で談笑しながら食事を楽しんでいた。
「…………エリオくん、楽しそう…………」
 ぽつりと零れ出た言葉は、すぐ傍らにいるスバルとティアナすら届かず、自身もそれを忘れたかの様に食事を続けたが、普段なら量だけでなくそれなりの味わいが有るはずのパスタは、何故だか妙に、味気なかった。


 ————その日の勤務終了後。
 六課隊舎のロビーにて、汗を流し終えたフォワード女性陣は、アルトを交えた4人でティー・タイムを楽しんでいた。シャワー室を出てみると、いつも待っているエリオはいなかったのだが、時には何らかの用事でエリオだけ後の合流となる事もままあるため、3人は特に気にせず、先にアルトと合流していたのである。
「それでねそれでね、その時のヴァイス先輩ってば、本当におかしかったのよ! 普段は酔っぱらう事なんてないもんだから、たまに酔うと本当に収集が着かないみたいでさ、『お、俺は酔って…………いるな、うん。だがしかし! それを自覚出来ていると言う事はまだまだやれると言う事だ。本当の俺を甘く見るなよ?』とか言っちゃって、そのまま突然、酔拳じみた演舞を始めたわけ! もちろん千鳥足が震えまくってるもんだから、見事に料理にダイブして、顰蹙を通り越してみんなで大爆笑だったわ!」
 面白おかしく話されるヴァイスの痴態に、聞いていた3人からどっと笑いが起こる。ティアナやスバルとしては、憧れの男性の珍プレイに内心思う所も有ったが、それはそれ、これはこれと言うもので、そんな決まらない所もまたヴァイスらしいと思ったりもするのだった。
「人間、お酒に酔うとろくな事が起きないですねー。訓練校時代、ジュースと間違えてカクテルを飲んだ時のスバルとかも、本当に酷いもんでしたよ————」
「すとーっぷ!! それ以上はダメ、絶対!」
 横目でからかう様にスバルを見ながら話そうとするティアナに、全力全開で止めに掛かるスバル。
「なによ、あの事件で一番被害を受けたのはあたしなんだから、生殺与奪はこっちが握ってるはずよ? で、ですね。その時のスバルと言ったら…………」
「やめーっ!! 大体、それを言ったらティアだってその後こっそり飲んでみて————」
「待ったーーー! え、な、なんであんたがそれを知ってるのよ!? へべれけで大いびきかいて寝てたじゃないっ!」
「いやそれが、何かこう機人的な部分だけは酔っぱらってなかったみたいでね? ティアが言ってた事、全部聞こえてたんだなーこれが」
「ずるっ!? 便利すぎでしょあんたの身体! …………って言うか、わーすーれーなーさーいーっ!!」
「痛い痛い痛いっ!! こめかみ痛いからっ! 分かったから、言わないから止めてティアっ!!」
「まあまあ、二人ともそのくらいで。後でわたしにだけこっそり教えてくれれば良いから」
『教えませんっ!!』
 一頻り言い争って、最後にハモる二人は実にらしい。キャロは口こそ挟めずも、いつもながらの楽しい光景にくすくすと笑い————

 ————ズキン。

 胸に走った小さな痛みと共に、全身の血がすうっと昇ってゆく感覚を覚えた。
 廊下の先から歩いてくる、シャワー上がりの湿り気を帯びた髪をそのままの、エリオとシャーリーを目にして。
「…………エリオくん?」
 呆と呟いたキャロの言葉に、ティアナ達も何気なくそちらを見て、
「————あれ、なんだエリオ。あんたまだシャワー浴びてなかったんだ?」
「ええ、その、訓練終了後に、ストラーダのメンテナンスでシャーリーさんに呼ばれてまして…………」
「————それで、ついでにシャワー室へ強制連行して来たわけ。どうせこの子、そうでもしないと毎日カラスの行水状態なんだろうからね」
「い、言わないで下さいよ!」
 シャーリーの言葉に、エリオは元々赤らんでいた頬をさらに染めて、ぶんぶんと手を腕を振った。
「なんだ、それじゃ今日はシャーリーさんと一緒にシャワー浴びて来たんだ? へえ…………珍しい」
「…………いつも、わたしが頼んでも一緒に入ってくれないのにね…………」
 スバルに続けて呟いたキャロの言葉は、常に無い強張りを含んでいて————しかしそれには気付かずに、エリオは苦笑して続けた。
「…………その、昔からフェイトさんが居ない時とかお世話になってたから…………なんか逆らえないんだ…………」
「おしめを替えた事は無いけれど、それくらいの時間を過ごして来たものね」
 あっけらかんと告げるシャーリーの様子は、キャロから見ても自然体で、いかにも慣れた風だった。さらに————

 きゅ。

「————ほら、良いにおい。男の子は清潔にしてないと、女の子に嫌われちゃうよ?」
 背後からエリオを抱きすくめ、気持ちよさそうにシャーリーは微笑む。ティアナもスバルもアルトも、別に気にした風もなく、照れるエリオを微笑ましく眺めていたが、キャロだけは違った。
「あっ…………」
 思わず息を飲み、手を差し出して————自分でも何故そうしたのか分からないかの様に、戸惑いの表情を浮かべていた。
「————キャロ? どしたの?」
 アルトが尋ねると、キャロはふと我に還り、自分の手と、エリオと、含んだような笑みを浮かべて自分を見ているシャーリーを見比べる。
「え…………あ、いや、え…………?」
 何が起きたのか分からないというように、所在無さげに行ったり来たりするキャロの手。
「————顔色あまり良くないわよ、大丈夫?」
 ティアナの言葉に、より一層混乱したキャロは、
「あの、わたし…………ごめんなさい、ちょっと、先に休ませてもらいますね!」
 我知らずそう言い残して、一礼だけして走り去って行った。
「キャロ…………?」
 それを呆然と見ていたエリオも、何か良く分からない感情に胸を締め付けられ、息苦しさを感じていた。ティアナは、そんなエリオとシャーリーの表情を見比べて————
「————なんだか分からないけれど、ま、大丈夫だよね? 別に体調が悪かったわけでも無さそうだし…………それでね、さっきの話の続きなんだけど…………」
 気分を変えて、再び話し始めたアルトの言葉に、意識を切り替えてそちらを向く。
「その次の日の朝がまた、傑作だったのよ! なんと! あまりにへべれけだった先輩は前後不覚の中、トイレの————」
「————トイレの…………なんだって?」

 ぴきぃっ!!

 わしっ! と脳天に置かれた手に、アルトの表情がまともに引きつる。誰の手かは、見ずとも瞭然だった。
「よう、景気良さそうじゃねえか、ちびアルト? で、誰がどうしたって? 聞いててやるから、続けてみろよ、あ?」
「いえ…………その…………あの、とりあえず、その尖った爪が徐々に食い込んで来ている手をどかしてはもらえませんか?」
 無論、どかすことなどせず、むしろ少しずつ込める力を増してゆきながら、でっかい怒りマークが誰の目にも見えるような表情をしたヴァイス・グランセニックは、おもむろに口を開いた。
「————アルト・クラエッタ陸士が、男兄弟の中で育ったために自分を男だと勘違いし、学校の男トイレで粗相をした話は、諸君も既に知る所だとは思うが…………実はその話には続きが有る」
「せんぱっ!? ちょ、それだけは! その話だけは社外秘! トップ・シークレッ…………んむぐっ!?」
 何やら騒ぎ立てるアルトの口を、冷徹に塞いだ上で、ヴァイスは続ける。
「そう、それは次のプールの時間だ。どうしても自分が男であると主張したかった、当時のアルト陸士は————」
「ふむぐーーーーーーーっっ!? ふむっ! ふんぐーーーーーっっ!!」

 

 なのは達、隊長陣4人は残務処理を終えた後、シャワーを浴びて疲れを取ろうと、連れ立って廊下を歩いていた。若手のように姦しく騒ぐ事は無いが、それなりに軽口などを叩きつつ、和やかに歩いていた面々は、結果として曲がり角の先から駆けて来る足音を聞き逃すことになり————

 ドン!

「————うわっ!? …………こらーっ! 危ねえだろ! 廊下を走んじゃねえっ!!」
 唐突に出て来たキャロに肩でぶつかられ、思わずバランスを崩してしまったヴィータは、苛立ち混じりに振り返り、キャロに向かって叫ぶのだが…………
「…………あれ? キャロ、止まらないね」
 なのはが思わず呟いたように、ヴィータの一喝すら聞こえていなかったのか、キャロは足を留める事もなく、そのまま走り去って行ってしまった。
「————妙だな。不注意でぶつかっておいて、謝りもしないような無礼者ではなかったと思うが…………?」
 シグナムも、怒るより首を傾げ、一人激昂しかけていたヴィータさえ、変に毒気を抜かれて頭を掻いていた。
 ————そんな中、フェイトだけは、瞬間見えたキャロの表情を気に掛けていた。
 切羽詰まっているわけではなく、悲壮だったわけでもない。ただ、ひたすらに混乱して、周りが見えていないような————虚ろだったのだ。
「…………ごめん。わたし、ちょっと行ってくる」
 フェイトはそう言い残して、小走りにキャロを追いかけて行く。分隊長として、廊下を走るのは示しがつかない所ではあるのだが————3人とも、それを注意しようと言う気にはならなかった。


 明りも点けず、暗いままの部屋で、キャロは膝を抱えて物思いに耽っていた。いや、その表現は少し違うかも知れない。物思いに耽ろうとも、何を思えば良いのかさえ、自覚出来ないのだから————

 コン、コン。

 幸いにも、ノックの音は耳に滑り込んできた。
「……………………はい」
 小さく、呟くような返事を、しかしノックの主は聞き漏らすことはなかった。
「————フェイトです。入っても、良いかな?」
「はい」
 今度は幾分はっきりと返事が出て、すぐにドアは開き、キャロの目に馴染んだ柔らかな金髪が、暗がりの中でなお眩く映った。
「廊下でヴィータにぶつかったのに、そのまま行っちゃったね。ちゃんと謝らないと駄目だよ?」
「え…………?」
 フェイトに言われて、初めてキャロは、自分の肩に鈍い痛みが残っている事に気付く。何となく、誰かとぶつかったような感触がフラッシュ・バックして、
「あ…………ごめんなさい…………」
 呆然と呟くキャロに、フェイトは優しく微笑み、首を横に振る。
「謝るのは相手は、わたしじゃないよね? 大丈夫、ヴィータももう怒ってないから。ちゃんと謝れば、許してくれるよ」
 言いながら、フェイトはキャロが座るベッドに腰掛けた。そして、小さな身体をさらに縮こまらせているキャロの肩を抱く。
「どうしたのか、話してくれるかな?」
 押しつけがましくなく、過度に心配するようでもなく————フェイトが掛けてくれた言葉に、キャロの胸が、何かの堰を切った。
「————分からないんです。わたし自身、何がどうなってるのか…………。別に、普通だと思うんですよ? エリオくんがシャーリーさんと仲良く話したり、一緒にお風呂に入ったりしただけで…………そんなの、ティアさんやスバルさんだって、いつもしてる事ですし…………。シャーリーさんは、エリオくんの事を昔から知ってたんだから、わたしの知らないエリオくんの笑顔だって————」
 虚ろながらに、浮かべていたはずの気のない笑顔が、そこで完全に色を失う。
「————わたし…………知らなかった。エリオくんが、あんな笑い方するんだって、知らなかったんです。エリオくんは、いつもわたしを護るために大人びた顔で格好良くて、わたしと同い年なのに、わたしなんかよりもずっとしっかりしてて…………あんな…………子供みたいな……って言うのも変ですけど、そんな笑い方するなんて知らなかったんです」
 キャロの肩を抱くフェイトの腕が、僅かに温かみを増した。キャロの脈打つ胸の鼓動を、少しでも静めてあげるかのように。
「…………フェイトさん、わたし、どうしたら良いんでしょう? いやな子になっちゃったみたいなんですっ……! エリオくんが笑ってるのが嬉しかったはずなのに、知らない笑い方をしてるのが、なんでだか嫌なんですっ…………! 胸がもやもやしてっ…………苦しいっ…………フェイトさんっ…………わたし、苦しいですっ…………!!」
 ついに、キャロは涙を零し、嗚咽する。フェイトはキャロに向き合い、両腕で抱き締めて、頭を撫でてやり————

《————フェイトちゃん。ごめん、ちょっと良いかな?》

 唐突に届いたのは、親友からの戸惑いがちな念話。フェイトもまた、少々戸惑いながらも、それをおくびにも出さず、念話で応える。
《どうしたの、なのは?》
《うん、あのね…………今、キャロと一緒にいるんだよね?》
《そうだよ。それで?》
《シャーリーが、キャロを連れて海岸に出て来てくれないかって。見せたいものが有るんだって》
《シャーリーが?》
 つい今ほど、キャロの口から何度も聞いていた名前に、フェイトは怪訝な思いを抱く。
《シャーリーも、なんだか変な感じだった。ごめんだけど、行ってあげてくれないかな?》
 なのはの言葉に、フェイトはしばし黙考し————
「————キャロ、ちょっとお散歩しようか?」


「————振られた? シャーリーさんがですか!?」
 アルトが泣いて終わった茶会の後、少し散歩をしようと連れ出された所で、シャーリーから告げられた言葉を耳にしたエリオは、我知らずそう叫んでいた。
「————正確に言えば、振られる事も出来ない内に、終わっちゃったんだけどね」
「そんな…………」
 信じられないと言うように、エリオは呆然と呟いていた。
 シャーリーは、エリオにとってフェイトと同じくらいに魅力的な女性だった。同僚達からは、『メカオタ眼鏡』等と呼ばれる事も有ったり、三枚目なイメージを持たれているシャーリーだが、フェイトの補佐として実に優秀に仕事をこなし、また人付き合いの上手さから人望も厚い。誰彼にも噛みついていた頃の自分さえ、シャーリーには不思議と、初対面から毒気を抜かれていたように記憶している。
「おかしいですよ、シャーリーさんが振られちゃうなんて」
「あはは、ありがとうねエリオ。そう言ってくれると、お世辞でもお姉さん嬉しいな」
「お世辞とかじゃなくて!」
 どうにも真面目に受け取らないシャーリーに、エリオも語気を強めるが、その口元に、そっとシャーリーの人差し指が添えられる。
「————色々、有るんだよ? 止むに止まれぬ事情って言うのが、ね?」
 泰然としたその所作に、思わずエリオは口を噤み…………
「…………僕だったら、絶対に断らないのに…………」

「————本当に、そう思ってくれてる?」

 エリオの言葉は、半ば本気で、半ばは無いと分かっているが故の軽口。しかし、その言葉に、シャーリーは表情を変えた。
「……………………え?」
 いつしか、シャーリーの声は硬さを帯び、その表情はエリオもついぞ見たことのない、真剣なものとなっていた。
「もし、ここでわたしが、エリオの事を『好き』と言ったら、エリオは応えてくれる…………?」
「え、いや……え!?」
 思わぬ反応に、エリオは途端にしどろもどろになった。無理もないことだろう。10歳の少年が浅薄に漏らした言葉への反応としては、シャーリーのものとは思えない程、愚かしいほどに本気の色を帯びていたのだから。
「エリオは、軽蔑する? 好きだった人への想いが成就しないって分かった途端に、別の男に走るような軽い女だって。しかもそれが、これまでずっと、弟みたいに思っていた子に対してなんだから」
「軽蔑なんてそんな! いえ……でも、だからと言って…………」
 そんな想いなど、抱こうはずもないが————エリオの胸に渦巻くのは、何とも知れない罪悪感。ままならぬ想いに翻弄され、身動きも取れないエリオを、いつしか歩み寄っていたシャーリーが、胸に抱く。
「あ————」
「エリオ…………わたしね、エリオの事が、好き————」

「————だめええええええええええええっっっっっっ!!!!」

 迸った絶叫に、瞬時にエリオの身が自由を取り戻した。
 声の主は————キャロ。
 フェイトに連れられて、まだ涙の跡を残したその眦には、真新しく涙が溢れ出て————

「————あ…………え? わ、わたし…………え? ぁ………………ぁぁぁぁああああああっっっ!!」

 堰を切った想いを制御できず、自分の行動が理解出来なくて————キャロは駆け出した。その場の何者からも、逃げ出すかのように。

「————————キャロっ!!」

 永劫にも思えた逡巡は、実の所言葉通りに————一瞬。

 エリオはシャーリーに何も言わず、キャロを追って駆け出した。

 それを追うシャーリーの表情は、安堵のような、空虚のような————

「…………シャーリー、眼鏡を外して」
「————はい」

 ぱんっ!

 ————乾いた音が響いた。強くはないが、熱い音が。
「…………わたしは、あの子達の親代わりだから…………たとえ誰だって、あの子達を泣かしたら許さない」
 僅かに赤みを帯びた手をそのままに、フェイトは滅多に見せない厳しい表情で、シャーリーを睨みつけていた。
「————ごめんなさい」
 神妙に告げられた謝罪の言葉に、フェイトの表情から、少しだけ険が取れる。
「なんで、こんな事をしたの?」
 シャーリーは眼鏡を掛け直し、寂しげな表情でフェイトの瞳を見つめる。
「気付かせてあげたくて。あの子達の、本当の気持ちに」
 シャーリーの表情に、フェイトにも戸惑いが生じる。
「…………いつかあの子達が自分で気付くならともかく、早過ぎるよ。エリオもキャロも、まだ10歳だよ?」

「————遅過ぎる事も、有るんですよ? 幼馴染みになっちゃうと…………」

 ————思わず、フェイトは息を呑む。そして、全てを理解した。
 途方に暮れた様に、おろおろと自分の手とシャーリーの赤みを帯びた頬を見比べ————両手でシャーリーの顔を包み、泣きそうな表情で謝った。
「————ごめん、そっか、そうだったんだね…………わたし、何も知らないで…………」
 す……。と、シャーリーの人差し指がフェイトの口元に添えられる。
「良いんです。そんなフェイトさんですから、わたしは誇りを持って補佐出来るんですよ?」
「シャーリー…………!」
 たまらなくなって、フェイトはシャーリーを抱き締める。

 シャーリーは、母のようなフェイトの腕の中で、声も上げず、涙も流さずに————泣いた。


 ややあって、背後から聞こえてきた足音に、シャーリーはフェイトから離れ、後ろを振り返る。
 そこにいたのは、小さな二人の姿。

 エリオの表情に浮かんでいたのは、申し訳なさと、一つの決意。

 キャロの表情に浮かんでいたのは、負けん気と、一つの決意。

 ————二人の間では、何かを訴えるかのように、しっかりと手が結ばれていた。

 ふ……と、シャーリーは見る者を安心させる微笑みを浮かべる。想定外の反応に、戸惑いを見せる二人の元に近づいて————

「ごめんね」

 キャロに呟き————

「しっかりね」

 エリオに呟いた。

 呆然としていた二人が我に還ったとき、すでにシャーリーは、隊舎へと入る頃だった。
「あのっ…………! ありがとうございましたっ!!」
 エリオの言葉に、キャロもまた、シャーリーの想いを理解する。
「あ…………ありがとうございましたっ!!」
 キャロからも告げられた言葉に、シャーリーは振り返らず、ただ後ろ手を振った。


 …………全く、損な役回りだよね、我ながら。
 でも、それはそれでわたしらしいのかな? 困った事に、そんな自分が案外好きだし…………。
 とりあえず、心配そうに出刃亀してた、ティアナとスバルをおもちゃにする事くらいは、許してもらえるかな?

 ————了。

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