————ふと思い立ったそのままに、帰路に着くはずだった足は、管理局備え付けのトランス・ポーターへと向かっていた。
 休日前の夜と言えば、いつもなら主の終業を待ち、気心知れた仲間達と共にミッドチルダの自宅へと帰り、日々の疲れを癒しながら団欒に興じるところだったが、生憎にも今日はその主が遅番だった。徹夜の勤務と言うほどではないものの、さりとて勤務が終わった後の時間を、ロビーなどで待ち過ごすには少々長すぎる。それに、家族の他の面々も、重なる時は重なるもので、今日に限っては友人の夕食に呼ばれていたり、出張で局内にはいなかったりとバラバラなのだ。
 さて、家に帰っても時間を持て余すだけか————そう思っていた矢先の思いつきは、なかなかどうして悪くないものだった。
 折りしも今日は、現地の暦で言えば12月も半ばと言うところ。
 命日の付近ともなれば、墓標の一つも有るわけでないにしろ、墓参りと言うのも悪くない。

 ————そうして、アギトを伴ったシグナムは、久方振りの海鳴の地に足を降ろした。


 【魔法少女リリカルなのはSS『その盃は、想いと共に傾ぐ』】


「…………ぅぅううさっぶー…………。雪が降ってるって知ってれば、もっと厚着して来たのにさー…………」
 聖夜を迎える装いに飾られた町は、シンシンと降りしきる粉雪により殊更美しく着飾っていたが、ミッド本局付近の比較的温暖な気候から来た身としては、少々きつい寒さだと言える。海鳴に来た事で、普段はあまりならない人間大フォームになっているアギトは、薄めの洋服にだけ護られた身体を縮ませて、泣き言をもらした。
「寒さに震える融合機と言うのも、中々にシュールな光景ではあるが」
「んだよーっ! …………あたしは『烈火の剣精』なんだから、寒さには強くないんだよ。それに、こういう雪の中で寒く感じないのもつまらないだろ。こういうのは気の持ち様なんだよ」
 それならば、その気の持ち様とやらで、寒さも我慢すれば良いものを————と、いささか苦笑気味に相好を崩しつつも、シグナムは自分のコートの裾をそっと開いてやる。
「ほら、こっちに来い。少しはマシになるだろう」
 その申し出に、アギトは笑顔で駆け寄ろうとして、ふと足を止め上目遣いに様子を伺う。
「でも……歩きづらいだろ? 悪いよ」
「良いから入れ。お前が寒い想いをするよりは余程良い」
 言葉はともすれば冷たく感じるが、その声と表情には温かさが滲み出ている……そんなシグナムに、アギトは嬉しそうに駆け寄って、コートの中に丸まった。
「あー、生き返る! あんがとな、シグナム」
 満面の笑顔で言うアギトに、シグナムは悪戯っぽく笑い————
「————確かに少々歩きづらいか。どれ、こうした方がいくらか良いかも知れないな」

 ふわっ……。

「うわ!? ちょ、シグナム!」
 ちょうど小学生になる子供くらいの大きさのアギトは、唐突にシグナムの手によって抱え上げられていた。思わぬ行動に驚き、もがくアギトに、涼しい顔でシグナムはたしなめる。
「こら、あまり暴れると落ちるぞ」
「だって、ん……よせやい! そんなバッテンチビみたいな子供じゃあるまいし! な、なんか恥ずかしいよこれ!」
「そう言うな。海鳴に降りたら、よくこうして主はやてを抱いていた事を思い出してな……懐かしいし、温かいし、歩きやすい。これだけ好条件が揃っているのだから文句を言うな」
「あたしの『恥ずかしい』はノーカウントかよっ! …………たく、いつもながら強引だな、あたしのロード様は」
「まあ許せ。私も主が強引だからな、どうしても似てしまうのだろう」
 悪びれない様子のシグナムに、アギトは溜息を吐きつつも、まあ良いかと諦めモードになる。それに実際、ただコートの中で共に歩くよりも温かいし、本音を言えば嬉しい。否応なく押しつけられてくるシグナムの胸に、なんとなく劣等感を覚える悲しい事実はさておき。  ————と、ふとシグナムの足が止まる。怪訝に思ったアギトがシグナムの目線を追うと、そこには一人の青年がいた。町中にある小さな公園の一角で、どこを見るでもなく空を見上げ、手にした缶に口を付けては、自分の隣に少量こぼす、を続けている。
「…………なにやってんだ、あの人? 缶の中身わざとこぼすなんて、勿体ないことしてんなー」
「気になるな…………聞いてみるか」
 そう呟くや、シグナムはアギトを抱いたそのままで、公園の中へと足を向けた。

 青年とは言っても、もう歳は30そこらになる所だろうか。落ち着いた雰囲気で、手にした酒の缶に呑まれるわけでもなく、少しだけ赤くした口元に再び缶を運び、口に含んだのと同じくらいの量を傍らにこぼす。遠くと言うよりも、空を見上げる風に息をつき、また缶を————
「すみません、少々よろしいですか?」
「————————え?」
 まさか誰かから声が掛かるとは思っていなかったらしい青年は、少々呆気にとられたように驚きつつも、声を掛けてきた女性の風体を見て、どうやら職務質問とかではなさそうだと安堵の息をもらす。
「なんでしょう?」
 人好きのする、毒気のない笑顔で尋ねてくるその表情を見て、老成しているほどの歳でもなかろうに、こうも落ち着いた雰囲気を出せるものかと感心しながら、
「失礼ながら…………今ほどそこの道から、あなたの行動を何ともなしに見せて頂いていたのですが、どうにも気になりまして。先程から、飲んではこぼしを繰り返しているようですが、一体何をされていたのですか?」
 言われて合点が行ったように、青年は頷く。
「ああ、外国の方でしたら、知らないのも無理は無いですね。これはね、『弔い酒』って言うんですよ」
「…………とむらいざけ?」
 弔いと言う言葉の意味を思い出し、改めて酒を注いでいた先を見てみれば、そこには飾り気の無い花が、しかし丁寧に置かれていた。
「説明ついでに、少々思い出話に付き合って頂けますか?」
「————是非」
 人見知りか、それとも何となく空気を感じ取っているのか、一言も喋ろうとしないアギトの頭を優しく撫でてやりながら、シグナムは静かに頷いた。
「…………友がいたんです。古くからの付き合いでした。破天荒な奴でね、快活で、いつも後先考えず行動して、友人の輪の中で、いつも中心になっているような奴でした。僕はどちらかと言うと、あまり騒ぐのは好きじゃないタイプでしたが…………それでも、あいつといる時は楽しかった。正反対のタイプだったから、お互い惹かれ合っていたんですかね。学生時代からウマが合って、卒業後もよく飲みに行きました。
 正義感が皮被ったみたいな奴で、弱い者いじめとかは絶対に許さない奴でした。あいつはその日も、たまたま通りかかったこの公園で、カツ上げされている学生を見つけ、止めに入ったんです。
 …………人の命なんて呆気なくて、どこでどう終わるか分からないものですね。加害者の男が、偶然ナイフを持っていて、偶然気が立っていて、偶然刺さり所が悪かった————たったそれだけの事で、あいつは死んでしまいました。最後の最後、救急車を呼んだ後に必死に呼びかけてくれていた学生に、こうこぼしたらしいです。
 『怪我は無い? そう、良かった————』って。自分は胸からだくだく血を流しながら。
 …………その日の夜ね、約束してたんですよ。あいつ、短大出てから2浪して、ようやくやりたい事が見つかって、就職が決まったって言って喜んでて————だから、酒でも奢ってやろうって。いつもの大衆居酒屋じゃなくて、少し小洒落たカウンター・バーにでも行って————だけど沙紀は、結局いくら待っても来なくって…………2時間待った所で、あいつの母親から電話が届きました。死んだって、ただそれだけ」
 思い出を綴りながらも、青年は時折缶を傾ける。
「————毎年、この日が来ると思い出すんですよ。それで、沙紀と盃を交わしたくなるんです。最後の…………果たせなかった約束の、せめてもの代りとして。
 いなくなった者のため、そして、いなくなった者と共に盃を交わす。それが、弔い酒ですよ」
 逆さにした缶を振る。最後に零れる数滴が、街頭の明かりに煌めいて落ち、青年は花の隣に空き缶をそっと置いた。おどけてこぼした「今日くらいは、不法投棄とか言われませんよね」という言葉に、シグナムも淡く微笑む。
「————可愛い子ですね。妹さんですか? それとも、ひょっとして娘さん?」
 青年の言葉に、シグナムは曖昧に微笑んだ。
「さて、どちらとも言えるかも知れませんね。大切な、家族の一人です」
「それは素晴らしい」
 青年の笑顔に屈託は無く、どこか緊張していたようなアギトの表情も緩む。
「————あなたは、沙紀とどこか似ています。なんとなく、命日のこの日に沙紀が帰って来たような気がして、嬉しかったですよ」
 思わぬ告白に、わずかばかり鼻白んだシグナムだったが、すぐに笑顔を戻して頭を下げる。
「こちらこそ、貴重なお話が聞けて有意義な時間でした。感謝します」
「ああ、それとね…………」
 シグナムの謝辞に、空とぼけるように青年は一つ加える。
「もし、あなたも酒を買って行かれるのなら、そこの角に在る酒屋が良いですよ。安くて良いのが、色々置いてありますから」
 今度こそ、シグナムもアギトも弾かれたように青年の顔を見る。青年はただ、ニコリと微笑むのみだった。

 カ……プシュッ!

 袋から取り出した2本目の酒を開け、乾杯をするように軽く掲げて見せる。
「————では、良い一夜を」


 片手にアギトを抱き、もう片方の手で小さめの酒瓶とグラスの入った袋を持ち、シグナムは雪道を歩く。
「……不思議な奴だったな、さっきの」
 沈黙に耐えかねたと言うわけでもなかろうが、何気なくもらしたアギトの言葉に、シグナムもしみじみと頷いた。
「今でこそ、落ち着いて昔語りのように話していたが、自分の心の中で折り合いを着けるまでは、相当に大変な想いをしたのだろう。あのような達観した眼は、誰にでも出来るものではない。弔い酒の意味を聞いているときの我々の様子から、何となくでも似た雰囲気を感じ取ったのだろうな」
「…………旦那が……ゼストの旦那がさ————」
 つと、零すように漏れ出たアギトの言葉に、シグナムは自然と口を噤む。
「————本当に時々だったけど、酒を飲んでた事があったんだ。いつものあのムッツリ顔でさ、美味いのか不味いのかも良く分からない風に…………でも、不思議とサマになってて、見てると何となく楽しくて…………あたしがよく、酌してあげてたんだよ」
 アギトの言葉は、どこかもどかしげで、言いたい事に遠回りをして近づいているような————
「————来週末にでも、ゼスト殿の墓標に酒を備えに行くか?」
 先回りして告げたシグナムの言葉に、一瞬アギトは呆気に取られ、すぐに満面の笑顔で大きく何度も頷いた。
「…………うん、うんっ、うん!」
「さて、では今日は、私の墓参りに付き合ってくれ。アギトはここに来るのは初めてだったか? もうそろそろだ」
 シグナムの言葉通りに、八神家の面々には忘れられない景色が姿を現した。海鳴の町並みを一望する丘の上の公園。墓標などは立てておらず、傍にある一本の古木だけが、その場所の目印となっていて————しかし、降りしきる雪も相まって、目を閉じればそこにリインフォースが、初代祝福の風が立っていそうな錯覚さえ覚える、そんな光景。
 袋を降ろすと、アギトもまたシグナムの襟を引き、降ろして欲しいと催促する。シグナムは心得て降ろし、自身は感慨深げに、あの日リインフォースが立っていた場所を見つめる。その間にアギトは、手際よく袋の中から酒とグラスを取り出して————所在無さげに佇んだ。
「…………シグナム、そんで、どうすりゃ良いんだっけ?」
 言われて気付く。弔い酒の意味に関しては、青年の話で感覚的に理解したものの、そう言った作法などについては全く聞いていなかった事に。
「…………さて?」
「いや、さてじゃないだろ」
 気まずそうに頬を掻くシグナムに、半眼のアギト。
 ————と、そこに横合いから声が掛かった。
「————作法とか、調べたら色々有るかも知れんけど、気にすることはあらへんよ。ようは、どんな想いでその酒を交わすかって事だけや」
 ここにいるはずのない人物の声に、シグナムもアギトも少々驚きながら振り向く。
「…………主はやて、なぜここに?」
 シグナムに問われ、はやては雪を踏みしめて近づながら、気楽に手を上げて答える。
「別にさぼりとかやないでー。ただ、なんか上の管理間違いで、今日の分の仕事が既に終わってたんや。で、総務課から、『せっかくだから有給を消化しろ』なんて指示が来て、結局は半休取らされたんよ。ヴィータはなのはちゃん家やし、どないしょうって思っとったら、シグナムが海鳴に行ったって話聞いてな、この時期なら、きっとここやと思ったんや」
 ふと、シグナムははやての背後に、もう一つの足音が続いている事に気付く。その刹那だった。

 ぼすっ!

「————ぷわっ!? つ、つめてーーーーーっっ!!」
 突如顔に投げつけられた大きな雪玉に、アギトは狼狽し、悶絶する。すると、はやての背後からひょっこりと顔を出したリインが、楽しそうに手を叩いて笑っていた。
「あはははは! 我、奇襲に成功せりですっ!」
「て、てんめーバッテンチビ! 良い度胸してんじゃねーか…………ってやめ、やめろ! 雪ぶつけてくんなマジで寒いんだからっ!」
 普段、どちらかと言えばアドバンテージを取られてからかわれているリインが、雪と言う味方を得てここぞとばかりにアギトを攻撃する。はたから見ると、まるっきり小学生の雪合戦なその光景に、微笑んでいいやら苦笑いして良いのやら、何とも微妙な表情をしながら、はやては取りあえずリインを窘めにかかる。
「リイン、元気なんは結構やけど、ここでそんな事してたら、笑われるよ」
 誰に、とは言わない。しかし、すぐにリインははっとして動きを止め、バツ悪そうに俯く。これ幸いと反撃に転じようとしたアギトも、リインの様子を見て、毒気が抜かれたように手を下ろした。
「…………ごめんなさいです」
「別に怒ってるわけやないよ。それに、あの子かて、笑いはするやろうけど、リインが元気に暮らしていて良かったって思っとるやろ」
 神妙に頭を下げてくるリインを撫でてやりながら、はやては改めてシグナムに向き直る。
「しかし、弔い酒とはまた、風流やね。どこで知ったん?」
「いえ…………本当に、偶然の出会いの中で」
「そっかー」
 それ以上は特に何も訊かずに、はやては一歩、前に進み出る。
「————せっかくやし、少し贅沢にやってみよか?」
 はやてがちらりと視線を向けると、リインはすぐに、心得て魔法を組み上げる。リインが展開したのは、簡単な人払いの結界。なんとなくそちらに足を向けたくない気持ちになる効果と、空間内で起きている出来事が、他所からは見えなくなると言うものである。
 その結界が発動したのを確認してから、はやては傍らの古木に魔法を掛けた。それは、やはり簡単な幻術魔法。作用するものの記憶に合わせて、在りし日の姿を浮かび上がらせるもの。

 ざぁっ…………。

『————————わぁ』
 淡い色合いの花びらに着飾られる、目の前に現れた桜の巨木に、アギトとリインが揃って口を開ける。シグナムも、顔には出さないものの、その見事な桜に目を奪われていた。
「これが本当の桜吹雪————なんてな。まあ、吹雪って言うには、ちょう小降りなんやけど。
 …………あの子に、海鳴の桜を見せてやれんかったのは、結構心残りやったんや。うん、これで一つ、胸のつかえが取れたわ」
 言いながら、はやてはアギトの持つ袋を受け取り、中からグラスを取り出して、シグナムに手渡す。半ば呆然とそれを手にしたシグナムは、はやてに注がれる段になって、ようやく我に返った。
「あ、主はやてに酌をさせるなどと————」
「ええって。それに、あの子と一番付き合いが長いんはシグナムや。最初に、交わしてあげて欲しい」
 はやての言葉に、シグナムは言いかけた言葉を止め、一言「————はい」とだけ答えた。

 グラスを傾け、酒を少し口に含む。舌の上を転がるようにして、喉元へと滑り落ちてゆく大吟醸が、凍えた身体に染み入り心地良い。五臓六腑に渡るのを待つまでもなく、その熱は胸を冒し、ただ一口の酒が幾星霜の想いを呼び覚まさせる。一口目とあっては、まだ赤くなろうはずもないが、どこか温かい頬を感じつつ、またそれが笑みを形取っている事に気付く。
 そしてまた、グラスを傾がせた。今度は、彼女が眠りについたその大地に。薄く積もった雪を解かしながら、酒は大地へと染み入り、消えてゆく。
「————こうして、お前と酒を交わしたことなど、有ったのだろうかな?」
 独りごちるシグナムは、あやふやな過去に想いを馳せる。数百年の月日の中で、満ち足りていた時間など、往年の十数年しかなく…………しかし、もしやそんな事も有ったのかも知れないと考えて。
 悠久に繰り返される戦いの日々の中で、幸せだった日々と言うのは、支えでもあれば、時には残酷でもある。充ち満ちた生活を覚えていて、どうして辛い日々を耐え抜く事が出来るだろうか。辛い日々のみだったのなら、それが宿命と諦めることも出来るだろうが。騎士達がその理不尽に耐えられるように、あの優しき祝福の風は、シグナム達の記憶を操作してくれていたのかも知れない。
「いずれにせよ、今ではこうして、お前を想いながら盃を傾けることしか出来ないが————どうやらこれも、中々に乙なものだよ」
 いつしか隣に来ていたはやてに、シグナムはその手にしたグラスを渡す。はやてもまた、酒を一口飲んでから、そのグラスを傾けた。
「…………わたしも、こうしてお酒が飲める歳になったよ。もちろんその報告は、二十歳になった時もしたけど……目の前で飲むんは初めてやね。仲間内で一番強いんはなのはちゃんやけどな、わたしも結構強いんやよ? リインフォースはどうやったんかな。下戸やったら、結構面白かったかもなー。ユニゾンして飲んだら、どうなってたんやろ? あはは、大丈夫やよ。妹にそんな酷いことせんて。
 今日はここにいる4人だけやけど、また今度みんなで来るよ。その時は、ヴィータやシャマル、ザフィーラとも一緒に飲めるからね」
 グラスは、リインに手渡された。
「あの…………さっきはみっともない所見せてごめんなさいです。でも、はやてちゃんの事はしっかり護ってますから、どうか心配しないで下さい。…………護られる事もあるですが。
 ————あなたが、無念の中で逝かれたわけでない事は知ってるです。でもきっと、思い残した事も、いくらかは有ったと思います。だから…………あなたの名を継いだわたしが、きっとあなたの代りに全てを成します。
 ゆっくりと、休んで下さいね。祝福の風、リインフォース————」
 中身をもう僅かにしたグラスは、最後にアギトの手に渡った。
「————あたしは、あんたの事はよく知らない。でも、八神家の…………家族があんたの事を話す時は、本当に優しい表情になるんだ。それだけでも、あんたが温かい人だったって事はよくわかるよ。
 まかせとけ。バッテンチビは頼りないけど、あたしとシグナムが組めば無敵だから。あんたの主や、守護騎士達は、絶対に墜とさせない」
 ちらりとリインの方に目を向け、挑発するように言いながら、酒を零すアギト。空になったグラスをシグナムに手渡すと、頬を膨らませているリインのほっぺたを突く。

 ぷひょ。

 情けない音と共に、膨らませていた空気が漏れ、頬がしぼ萎えるのと反比例して紅潮してゆく。
「こらーーーーっっっ、待つです! 誰が頼りないですか誰が! 自分こそただの悪戯小僧のくせにっ!」
「へーんだ、文句があるなら捕まえてみろってんだ! どんくさいバッテンチビなんかに、誰が捕まるもんよ!」
「むきーーーーーっっっっ!!」
「こらアギト! リインも! もう…………あの悪ガキどもは…………!」
 公園の外の方まで駆けてゆくアギト達を追って、はやてもまた走り出す。シグナムは、寸前に送られて来た念話を反芻しながら、その様子を微笑んで見送っていた。

《話したいこと、それだけじゃないだろ? 一人にしてやるから、ごゆっくり————な》

 まだまだ大半を残している大吟醸の瓶からグラスに酒を注ぎ、シグナムはまた、酒を含む。見上げれば、白と桜色の粉吹雪。紅潮する頬に雪解け水が心地良くて————


 ————リインフォース、私は今でも時々思うよ。残ったのが我々で良かったのかと。

 もちろん、あの時お前の状態が芳しくなかった事は分かっている。しかし、本当にあれしか選択肢は無かったのかと、悔しく思う。

 長きに渡って、もっとも心を痛めてきたお前に、主との時間をもっとやりたかった。


 分かっているんだ、そんな風に悩んでも仕方がないと言う事は。

 そんな事をしても、お前は喜ばない————そう言う者もいるだろう。

 しかし、こうしてお前の事を想い、悩む事こそが、最大のお前への感謝ではないかとも思うんだ。


 私達は忘れない。お前の事を。

 『闇』として蔑まれてきた幾星霜を経て、最後の最後に得た祝福の風を以て、エールを送ってくれたお前を。

 きっと、八神家の長女であった、お前を————


 安らかに眠れ、リインフォース。

 最後の天寿を全うしたら、私達もまた、そちらに往く。

 その時はきっと、盃を酌み交わそう。

 だから今は、こうしてお前を想い盃を傾がせることで、許してやってくれ————


 一つ想いを呟くごとに、一つの雫が細雪を解かす。
 桜と雪が織りなす彩色の競合に、シグナムの想いも混じり合い、薄紅色の粉吹雪を駆け上がって、空へと昇華してゆく。
 遠くから聞こえる最愛の家族達の喧騒が耳に心地良く————

「————ああ、確かにこれは、悪くないな」

 

 ————そうだな、悪くない————

 

 ————了。 

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